豪華客船で出逢った二組の夫婦。
倦怠期にさしかかり、まとわりつく閉塞感を
船旅で晴らそうと試みるナイジェルとフィオナ。
かたや壮絶な遍歴を重ねた末、
クルーズ船にたどり着いたオスカーとミミ。
ナイジェルとフィオナは誰の目にも穏やかで
幸福に満たされているように見える夫婦。
オスカーとミミは、はた目にも曰くありげで、
夫婦と云うよりは愛人関係に見える取り合わせ。
ポランスキー監督は
ナイジェルとフィオナには平凡でごくありふれた男女の関係を
オスカーとミミには凡庸ではいられない間柄を、
それぞれに表象させて
その対比の上で
彼ら自身にすら意識されない深奥に鎮座している本然を
容赦なく引っ張り出してきて俎上に載せる。
それは『告白小説~』『毛皮~』においても同様だったが
また三作いずれの作品にも
書くことを生業としている人物が
俎上に据えられていると云うのも
決して偶然ではないだろう。
『告白小説』の作家デルフィーヌ、
『毛皮の~』の演出家トマ
そして本作の売れない小説家オスカー (ピーター•コヨーテ)。
(船上では筆を執っていないが、
書くかわりにナイジェルに語る、と云う設定が
実に効果的に機能していておもしろい。)
書くと云う行為に携わっている以上は
自己の内奥を覗くことなしには真に到ることなどできない、
と云わんばかりに
『告白小説』のエル
『毛皮の~』のワンダ
『赤い航路』のミミは
デルフィーヌ、トマ、オスカーに
執拗に内なる本懐をさらけ出すようけしかける。
さらに、彼女たちは悉く、
平穏な関係であったはずの男女に亀裂を生じさせ
破綻させようと仕向けていく。
最愛の人を喪うことになりかねない危険を
むき出しにした本性にゆさぶりをかけることで犯させる。
安穏を厭い、平静を忌み嫌う彼女たちは一様に
苦痛や煩悶、加虐被虐、底知れぬ欲望や快楽の渦に
表層の住人を巻きこみ呑みこまずにはおかない。
そのゆきつく果てに何が待っていようとも。
ポランスキー監督は
人並みな関係を描くだけでは飽きたらないのだ。
心層の上辺で繋がっている男女を告発し
懲罰として深奥の世界を開示するかの如くに
生涯にわたって生成りの関係にこだわって
作品を撮りつづけている。
エマニュエル・セニエは公開当時二十六歳。
獲物を射竦めるようなまなざしはすでにこの頃からで
大器の貫禄。
ピーター・コヨーテの有閑な色男ぶりが
ミミとの愛憎の果てに荒みきって
別人と見紛うほどに変貌している様が見事。
客船の揺れを男女のゆれとシンクロさせているのも一興です。