レインウォッチャー

セブン・サイコパスのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

セブン・サイコパス(2012年製作の映画)
3.5
全体スコアが振るっていないのは、ジャケ写の感じから軽いアクションコメディを期待した人にとってはややこしく、M・マクドナー監督作のバリューに惹かれた人にとっては思いのほかポップ…という、ちょっと不幸な《谷》に落ちてしまったから?かも。

しかしそこはマクドナー先輩、まるで一晩明けて冷めたカップの底のコーヒーのような一筋縄ではいかない雑味が、笑いのあとにしっかり残る作品になっている。それに、上記の《谷》の両極が、実はそのまま今作の内容を表すようであるのも面白い。

ハリウッドの脚本家マーティ(C・ファレル)は大スランプ中、7人の《サイコパス》(今作ではシリアルキラーと同値くらいの意)が出てくる物語を書こうと悩んでいる。
友人で俳優のビリー(S・ロックウェル)は彼を手伝おうとするのだが、副業(?)の飼い犬誘拐ビジネスが意外なトラブルに発展し、共犯の老紳士ハンス(C・ウォーケン)やヤクザのチャーリー(W・ハレルソン)も巻き込んで、事態は思いもよらぬ方へ展開していく…

今となってはマクドナー作品でお馴染みとなった濃ゆいメンツ(※1)がぞろぞろ登場、フリーダムで境界的なキャラ合戦に飽きるヒマはない。
しかしお話の構造は割と複雑で、マーティが書こうとしている脚本の内容と、映画内で進行する物語とが時に交錯・混濁する「入れ子構造」になっている。そして、これを単にギミックとして入れているわけではなく、この構造自体が映画全体の主題に繋がっているところが秀逸だと思う。

マーティは自分の脚本がいわゆる「ハリウッド的」、あるいは言葉を選ばずに言えば「ポルノ的」な、セックスと銃と死で観客を喜ばせるものになることを恐れていて、彼のスランプの一因もそこにあるようだ。
周囲の現実と脚本の内容がリンクしてくるにつれ、マーティは「そう」ならないように抗おうとするのだけれど、ビリーやチャーリーといった曲者たちの制御できない行動によって、まるで重力でも働いているかのように、彼らはある意味ベタな結末へと引き寄せられていく。

この有様は、プロデューサーや批評家、マーケット等の影響でなかなか純粋に自分の思う通りの映画を作れず苦悩する作り手の物語…と受け取ることもできるだろう。一癖も二癖もある映画を撮り続けるマクドナーらしくもある。

あるいは、マクドナー作品に頻出する要素であるキリスト教のフィルターを通せば、聖書という神様が用意した「脚本」によって大いに縛られている(※2)、欧米人のカルチャーや価値観に対する皮肉と考えることもできるかもしれない。

ただひとつ、それでもマーティは脚本を書き上げた、という結果が残る。最後のシーンには、彼が逃避していた酒の姿はどうやら見えない。
彼は、7人のサイコパスとの出会いを通して彼らの過去に触れる。彼らにはうっすら《復讐》を背負っている共通点があるのだけれど、マーティは脚色や飛躍が許された物語の中で、彼らをそのくびきから解き放ったようでもある。そして、それは彼自身への《赦し》にも成り得たのかも。

彼の表情に残るのは諦念なのか、それとも覚悟なのか…なんとも言い切れないけれど、この映画に物語が果たすべき役割、可能性の哲学が込められているのは確かだと思える。
俺には、次の映画を作ることしかできない。まるでそんなことを言っているようじゃあないだろうか。

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※1:さらに今作では、「ウサギをずっと抱っこしてるトム・ウェイツ」まで登場。これだけで観る価値は十分である。

※2:そして、その欺瞞がいよいよ通用しなくなってきていることも。はためく焦げた星条旗が、黙して語るようだ。