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天使のはらわた 赤い教室のbluetokyoのレビュー・感想・評価

天使のはらわた 赤い教室(1979年製作の映画)
3.9
脚本が石井隆、曽根中生の名義になっている。他の評価でその経緯を詳細に記述してくれたので興味深く読ませてもらった。おそらく、石井隆が脚本を書き、それに曽根中生が手を入れたのだろう。まだ、石井隆に自信はなかったので曽根中生に遠慮して、脚本の名義として、曽根中生の名前を残したらしい。共同脚本ということではないようだ。
オープニングからの冒頭がとにかく秀逸。ブルーフィルムの上映、中途で映写機が止まってしまい、ブルーフィルム観賞会のシーン、そこに主人公の一人、村木が他の客と映る。映写機が直って、再び、ブルーフィルムの上映。このブルーフィルムへの視点が村木であることを示している。
では、なにを見ていたのか。輪姦シーンや裸もそうだが、実は、そうではない。ブルーフィルムの中で犯されている女性の腕に巻かれた「教育実習」と書かれた腕章なのである。なぜ、そんなところを注視していたのかは、あとで、土屋名美と出会ったときの台詞に出てくる。つまり、ああいうシーンでは、そもそも、「教育実習」という腕章をわざわざ巻かないのである。なぜ、村木はそう言い切れるのか。村木自身がエロ本の作成の仕事をしているからだ。ヌード撮影にも日常的に携わっている経験からの、まあ、業界的な判断である。で、実際、土屋名美と会ってみると、本当にそうだったのだ。どういうことかというと、エロ映画の撮影ではなく、本物の輪姦事件をそのまま撮影したのだ。
だが、なるほど、そうだったのか、で、一件落着ではない。そのことに気付いたのは村木以外にもたくさんいたのである。いわゆる、セカンドレイプである。では、村木もセカンドレイプをしたかったのだろうか。それも違う。ブルーフィルムから土屋名美へのルートが唯一異なるからだ。他の連中はおそらく、土屋名美の顔を見知っていて、偶然にブルーフィルムを見て気づいた口だろう。
その場で村木は土屋名美に告白する。実は、おれ、エロ本、作ってんだ。親にも言えなくて、童話作っているなんて、ウソついている。たしかに、ポルノック社という社名は童話専門の出版社に見えなくもない。この告白が土屋名美に通じたのだ。村木がダメもとで名前を聞いたときに、ぼそっと、土屋名美は自分の名前を告げる。さらに、翌日、夜七時に公園での待ち合わせの約束を取り付ける。
当時はあいにくの雨だが、土屋名美はちゃんと待っている。なのに、村木は来れない。だいたい、こういう場合は来ないことになっているのだが。だったら、電話入れろよ、名美さんが勤めているのはラブホの受付だって知っているんだから。警察の取り調べで電話掛けられないなら、翌日でもいいし。たぶん、電話を掛けなかったのは、未成年者をエロ雑誌に登場させた疑いで警察に引っ張られたからだ。最後のシーンで、なぜ、あのときに行けなかったか、村木は理由を言うのだが、警察云々は言っていない。
三年経って、村木は結婚し、あいかわらず、エロ雑誌を作っている。ポルノック社内の呑み会で、エロの仕事か芸術かで言い合っている社員に嫌気がさして、外に出て飲み屋街を彷徨っていると、偶然土屋名美のいるスナックだかバーを発見する。そのスナックだかバーはエロいこと裏でやっている店で、村木は、土屋名美に、そんなところにいてはいけないと諭すが、逆に彼女に、あなたがこっち来ればと言われ、後ずさりしながら、彼女のもとから離れていく。それで終わり。
想像だが、エロ仕事か芸術かというポルノック社内での議論はところどころで出てくる。この部分が曽根中生の手を入れた部分ではないかと思う。石井隆は漫画家なのでそんなことを知る訳もないし、知っていたとしても、そんなことに躊躇や迷いがあるとは思えないからだ。
エロ仕事か芸術か、村木は、芸術に惹かれるが、そんなことをしていれば、ポルノック社は倒産してしまう。もちろん、芸術は土屋名美なのだ。土屋名美が、こっちへ来ればと言うと、そっちへ行けない村木は立ち去るしかない。たぶん、石井隆は、そういう軟弱なテーマは抱いてはいないと思う。これは、曽根中生自身の持つテーマなのかも。
こうした複雑な構造を持つからこそ、この作品は名作たり得るのだろう。冒頭のシーンに比べて、最後のエロいシーンが意外としょぼいので、点は低くしてあるが、全体的には興味深く一見の価値はある。
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