故ラチェットスタンク

降霊 KOUREIの故ラチェットスタンクのレビュー・感想・評価

降霊 KOUREI(1999年製作の映画)
4.2
うん。いや、別に怖くも何ともないじゃん。怖いけれど。別に、怖くも何ともないよ。『Chime』もそうだったけれど、どっちかって言うとしんどい映画じゃん。冷たい断絶と虚な孤独とそれでも続く現実と、そこに上手く接続できない自分たちと、その切なさしんどさで胸が引き裂かれる映画じゃん。引き裂かれているのに、気付かないフリをして、決定的に道を違える。そう言う映画じゃん。決して存在を証明できない。そう言う話じゃん。だから幽霊が出てくるんじゃん。それは、もう一度言うけれど、別に怖くも何ともないよ。淋しいんだよ。分からないんだよ。胸を締め付けられて苦しいんだよ。しんどいんだよ。強いていうなら、そのしんどさが怖いんだよ。だから、そのしんどさの行き着く果てとして、幽霊が出てくるんだよ。だから『降霊』の直近で『回路』が制作されるのはある種必然で、きっと『降霊』の更新であり、昇華なんだと思う。『回路』における救いは「それでも私は、他者を求める」その一点に集約される。多分だけれど、この映画は、霊の根源的怖さを描いたホラーでも何でもない。戸惑いの映画だ。孤独の映画だ。切なさの映画だ。他者を希求しようとする映画だ。他者の分かってくれなさに苦しむ映画だ。他者との断絶に苦しむ映画だ。夫をデートに誘うときの一連のやりとりからして、もう自明だ。それは恐ろしくも、怖くも、何ともない。ただ、しんどい。苦しい。切ない。消さないで。私を見つけて。でも、私は話せない。ぼんやりと佇んで、あなたに見つけてもらうしかない。でも見つけてくれたあなたも、私がどうして欲しいか、それを知る術がない。何故なら私は空っぽだから。「変わろうと思う」「何か良いことないかな」「どこかいこうよ」「いつもと同じか」「どうしたら分かってもらえるんだろう」そうやって、漠然とつぶやく傍らで、何もしないから。何も、知らないから。それは、息が詰まるような決定的な、真実。これは不勉強に無思考に都合良く物語を、夢を求めることへの、痛烈な非難だ。私は「いま、ここ」に居る。居ない。助けて。助けて。助けて。