あんじょーら

劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 新編 叛逆の物語のあんじょーらのネタバレレビュー・内容・結末

4.1

このレビューはネタバレを含みます

この映画はテレビ版か、もしくは未見ですが映画版(テレビ版のダイジェストらしいですが・・・)の続編という事と、とにかく話題になっている上に、宇多丸さんも岡田さんも批評していたので、批評は聞かずにとりあえず情報遮断して、観に行きました。



で、結論から先に言うと、傑作でした、いろいろな意味で。「風立ちぬ」も同じように傑作だと思いますし、「(いろいろな意味を含んでの)傑作」だと感じています。でも、作品の内容からしてネタバレに触れないわけには行かないですし、しかもテレビ版の内容も触れないわけにはいかないです。ので、未見でタイムパラドックスモノに興味がある方、SFが好きな方には強くオススメします。絵柄で引いてしまう人も多いとは思いますが、全然絵柄に合ってない内容だと思います・・・



アテンション・プリーズ!

どうしてもテレビ版の感想を、それもネタバレもちろんアリでまとめないと、映画版の感想をまとめる事も出来ません。しかもかなり核心的なネタバレを含みますので、未見の方はご遠慮下さいませ(最近テレビ版を一気に見返す合宿があったので・・・)。

でも、一見に値する名作だと思います、テレビ版。とくに「シュタインズ・ゲート」を見た方には強くオススメ致します。



テレビ版「魔法少女まどか☆マギカ」の感想


いわゆるよくある魔法少女モノと言える変身や手助けしてくれるマスコット的なキャラクターが肩に乗ってくる(キュウベエという猫のようにもキツネのようにも見えるアレ)のも、特徴的なモノですし、OPから勢い、変身シーンを繰り返し見せてきますし、よくあるモノを踏襲しているんですが、これが非常によく出来たストーリィです。


冒頭、マスコットであるキュウベエが主人公であるまどかに助けを求め、キュウベエを追いかけて傷つけようとしているのが転校生ほむら。しかもほむらもキュウベエによって変身するチカラを与えられた魔法少女です。まどかはキュウベエを庇っていくのですが・・・が冒頭です。まどかの親友さやかもその一部始終を見ています。そこへ先輩の魔法少女・マミが現れまどかたちを助けてくれます。そして、ここに後程加わる魔法少女である杏子の5人と1匹(キュウベエ)が主要人物です。


ふつう冒頭からの展開で予想される様々な事を急激に裏切って、驚きの連続のストーリィ構成は流石ですし、美術はすさまじい狂気を感じさせるに十分です(特に魔女の結界の中の美術は秀逸の一言に尽きると思います)。私の勝手な記憶ですと「魔女っ娘メグ」の美術を思い出されました。しかも魔女の描写がとてもヤン・シュヴァンクマイエル的な、呪術的なアート系の表現がされていて怖いんです。



最も重要なネタバレにも繋がりますが、結局キュウベエと契約するという事は、どんな願いでも1つ叶える代わりに、肉体と精神を完全に分け、肉体はただの入れ物であり、精神をソウルジェムに置き換え、魔法を行使するとソウルジェムが穢れて濁っていくので、魔女を倒してグリフシードを手に入れ、その穢れをグリフシードに吸わせなければならない。そして、倒さねばならない敵である魔女とは、魔法少女のなれの果ての存在というこの伏線の完璧さですね。


もう大変グロい展開なんですが、それなのにこのキャラクターの絵柄でやられるのがとてもエグいです。


ストーリィをネタバレすると、結局先輩であるマミはわずか3話で無残に死に、親友であるさやかは恋愛感情を抱いた男の怪我を直す願いと引き換えに魔法少女になるのですが、無意識での見返りを求めていた事を自覚して精神的崩壊して魔女化。さやかに過去の自分を重ねた杏子はさやかを不憫に思ってしまう事で隙をつくってしまいさやかと共に死亡。ここに至って、ほむらはまどかを助けるべく、何度も何度も時間を遡行している事実が明かされ、それでも最強の魔女「ワルプルギスの夜」に立ち向かっていくのですが勝てず、そのことを知ったまどかが最終話でついにキュウベエと契約、すべての魔法少女の存在がなくなり、魔法少女が魔女になるという理を無効にすることで、まどか自身は存在しない、概念として神にも等しくなるが、誰からの記憶からも姿を消してしまいます、ほむら、ただ一人を除いて。そしてほむら以外の世界に平和が訪れる、という展開です。



もうロジックが完璧すぎる。キュウベエの存在とマスコット的でありながらも完全にヒールというか全ての元凶であったというのも凄いです。そして何より主人公が最終話までただの傍観者である、という演出が凄いです、散々オープニングで変身シーンを見せつけられているので受け手も何処かで変身するだろう、というミスリードを誘っているのが見事。



魔法少女が魔女になるという因果律の設定も素晴らしいんです。まるでいろいろな宗教や世界観、哲学的なコトワリ(理)に置き換えられているように感じてしまうんです。これって「風立ちぬ」で言えば主人公である堀越二郎は思い通りの飛行機を形にしたら戦争の道具にしか使われず、しかも形にした夢を最も見せたかった相手はもういない、という無常観と同じとも言えます。



で、男の子向けタイムリープ作品としての「シュタインズ・ゲート」とほぼ同時期に放映されていた女の子向けタイムリープ作品としての「魔法少女まどか☆マギカ」なんだと思ってます。たしかに「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」のメタ構造とか、岡田斗司夫さんの言う「ベルセルク」にも近いんでしょうけれど(私は「ベルセルク」を未読なんで分からないんですが)、私は「シュタインズ・ゲート」と切り離せないリンクを感じました。



シュタゲでは厨二病の男の子(というか大学生・・・)が自らの殻を破って成長するのに対して、まどマギでは主人公であるまどか(個人的にはほむらの物語だと思うんですけど・・・)に想いを寄せるほむらの願いは成就しない、どちらを取っても立つ瀬がない成長する事が地獄のような無常観の世界なんです。



男子は日常との距離(妄想)を破っていく過程と恋愛を絡めつつ自らの殻を破って成長する作品であるのに対し、女子の世界はがんじがらめの因果律の中でどう自らを変えていくのか?という作品に見えます。シュタゲは仲間が大事でそこに恋愛感情が絡んで、世界を元通りにするのに対し(ジャンプで言う友情、努力、勝利の世界)、まどマギでは恋愛感情は描かれず、ただほむらからまどかへの一方的な感情を成就させない代わりに、世界を変える、因果律を破る、という大変大きな物語に収斂していくのが対照的で面白いと思いました。なんだか女子の方がやはり業が深い感じがします。


以上がテレビ版の感想(および「シュタインズ・ゲート」との比較)です。


で、やっと映画版の感想です。


冒頭、魔法少女として出てきた5人(先輩のマミ、親友さやか、学生になっている杏子、主人公まどかに、陰の主役ほむら)が全員学生であり、協力してナイトメアと戦うシーンから始まるのですが、なんと言いますか、非常にアヴァンギャルドでセンセーショナルな映像美に仕上がっています。魔法少女モノをそんなに見たことがあるわけではないんですが、いわゆる萌え的な絵柄であるのに、とてもスタイリッシュかつアヴァンギャルドで目がチカチカしますし、頭はクラクラします。とにかく凄い完成度です。


どう考えてもこの5人が揃っている、という事実が、どういう事なんだ?と思わずにはいられない導入です。で、だからこそより悪夢的な始まり方とも言えます。でも、正真正銘の続編でした。


今回も絵柄と物語が非常に食い合わせの悪さがあるのに、絶妙に合っているかのように錯覚させるのがとてもハイレベルで融合しているので、カワイイ絵柄のキャラクターがグロい展開の物語を演じている(というより、もがいている感じなんですが)のに、妙な一体感があります。例えば、ナイトメアと呼ばれる魔女っぽい敵を倒すのに、攻撃もするけれど、突然、何の説明もなく、ままごとのような遊びに興じてみせるくだりの、わけのわからない怖さと、素朴な可愛さはとても暗喩的ですが、女性性を感じさせます。女の子がままごとで夫役の子供を怒る際に、極めて些細な失敗をあげつらうかのような可愛い怖さを感じさせるのです。


5人が活躍する世界、それはまどかが消えた世界でただ一人、まどかの存在を知っている、その献身の悲劇性を覚えているほむらの精神的拮抗を得る為に作り出した妄想内世界、そしてこの妄想内世界を成り立たせ、便乗しつつ、「まどか」という「円環の理」を得ようと画策するのがキュウベエだったのです。いろいろぴったりハマるロジックで理解した時はかなり心動かされました。考え付く方も凄いですが、そのための表現がまた秀逸で素晴らしいです。


すべてを思い出したほむらに、キュウベエがまどかに助けを求めて救済を受け入れろと迫るも、ほむらはまどかの決意や意思を尊重して、このまま魔女てして魔法少女に狩られる運命を選択、という展開が非常に泣ける。涙は出ないが泣ける。


私はこの物語(テレビ版からずっと)は一貫してほむらの物語だと感じています。まどかの自己決定や意思はほとんどなく、それゆえ、最終的にすべての魔法少女を救うための自己犠牲であることで超越的な存在に見えなくもないんですが、私には至極当然な意思決定に見えます。『何かの役に立つ死』に憧れを抱く事は非常にヒロイックなモノであり、それこそザンボット3でもヤマトの真田さんでも、いくらでも存在しているし、利他的行動こそヒロイズムのある意味究極の姿とも言えます。ここで変わっているのは主人公なのに!という1点のみです。


なので、まどかにある意味殉教するかのごとく見えるほむらの行動はとても理解できますし(その些細なキッカケが誰からも必要とされていなかったほむらをまどかは最初から無条件に受け入れてくれた、という伏線がイイ)、ここまでこの映画をとても面白くスリリングに楽しんでいたんですが・・・


この後、ストーリィが急変!まどかを神のごとく崇拝していたほむらは、まどかと対立するべく悪魔という概念に自ら身を委ねるんです・・・


で、ここで私の頭は鑑賞中なのにパニックに陥りました・・・えっ?なんで???という疑問がどうしても拭えないし意味不明になってしまいましたよ・・・


で、円環の理のごとく、突然第1話の始まりの場面でもある学校に戻ってくるんです。そこではほむらが神ではなく悪魔として君臨する世界でもあり、ほむらの代わりにまどかが転校生として編入してきます。まどかとほむらの立ち位置を逆にした新たな物語がリブートして・・・というところでエピローグ。


で、鑑賞後にずっと考え続けて個人的に最も納得出来る推察は、





ほむらの心変わりは本人にも説明出来ないのではないか?「あの時私はどうかしてた」的な意味合いでなのではないか?



です。




他の方の感想なり批評を見に行ってはいるんですが、まだ個人的に納得できるものがありません。誰かと話したくなる、そんな映画でした。


ちょっと無い感じの鑑賞後の疲れと眩暈を呼ぶ作品だと思います。ちょっとした眩暈を感じてみたい方にオススメ致します。