虚構と現実
僕はどちらかと言えば空気を読むタイプ。
でも本音としては、どんなときでも自分らしくいたい。
この映画でハーヴェイ・カイテルが見せてくれたように。
ヨーロッパにある架空の国ズブロフカにある老舗ホテルグランド・ブダペスト。
そこで働くコンシェルジュとベルボーイとの交流を軸に、様々な登場人物達が織り成す小気味のよい喜劇。
とにかく豪華な顔ぶれの俳優達が適材適所で役に成りきっているのを見るのがとても楽しい作品でした。
絵本のようにポップで洗練されたビジュアルがこの映画のらしさならば、
入念に作り込まれたその世界観に俳優陣がとことん入り込んで演技をしています。
ただ、その世界観はいかにも作られたという感じがする。
嘘臭いわけでもなく、ちゃちなわけでもなく。
むしろ、洒落ていて、完璧な世界観。
だからこそ徹底的にこだわって作り込まれたような妙な雰囲気がある。
どの俳優もその空気を壊さないように、空気を読んで役を演じているように感じました。
しかし、唯一1人だけ。
ハーヴェイ・カイテルだけは終始ハーヴェイ・カイテルなんですね。
僕の一番好きな俳優だからって、多少贔屓目に見ているのかもしれないけれど、
彼だけはいつも通り周りの空気感に浸食されることなく
圧倒的な存在感を見せつける。
なんだか、彼は作り込まれた架空の世界に迷い混んでしまったかのようでした。
そもそもこの映画は、
虚構が舞台。
それでも架空の世界でありながら、
現実を匂わせる要素が随所に散りばめてある。
だとすれば、彼は現実を代表しているんじゃないのかと深読みしてみると非常に面白い。
じゃあ、この辺りを取っ掛かりにして更にこの映画自体を深読んでみます。
まずこの映画を虚構と現実とのせめぎ合いと見てみる。
すると、エイドリアン・ブロディーがエゴン・シーレ風の絵をぶち破った瞬間を虚構の現実に対する拒絶と見ることも出来るし、
ハーヴェイ・カイテルを筆頭とした脱獄の描写は虚構からの逃避と理解しても良さそうです。
何よりもグランド・ブダペストホテルを虚構の象徴と捉えてみれば、
ホテルと客を結び付けるベルボーイとは虚構と現実との橋渡しの役割を担っているようにも思えてくる。
ゼロという名にはそんな意味が込められているのかもしれません。
それで、彼は自身の体験をとある作家に語ります。
その作家のモデルとは監督ウェス・アンダーソンが影響を受けたというオーストリアのシュテファン・ツヴァイクだそうです。
このゼロが実在の人物をモデルにした作家に語るというスタイル。
彼が虚構と現実の繋ぎ手なのであれば、この形式はその作家の頭の中を可視化したものと見なせるんじゃないでしょうか。
だとすれば、
年代ごとにアスペクト比を使い分ける演出も、
ナチスを匂わせる軍隊の登場も、
架空の画家が実在の画家を打ち負かす瞬間も、
そして何より作り物感満載のグランド・ブダペストホテルという華やかな舞台も、
すべては作家の頭の中で虚構と現実とが介在者の助けを借りながら再構築されていったものと見なすことができる。
そうやってこの映画を捉えてみれば、
何とも丁寧にそして入念に作り上げられている理由が分かるような気がします。
そんな中でハーヴェイ・カイテルはやはりハーヴェイ・カイテルなんだから。
改めて凄い。
結局はそれに尽きてしまうの。
いやいや、どんだけ好きなのさ。