『ドーナツの穴はそこに“在る”のか“無い”のか』という議論を皆はした事があるだろうか。
私は今まで“在る”だと思っていた。
けれどこの映画を観て“在るべくして開いた穴”なのだという認識に変わった。
そしてその穴を埋めてくれる存在が必要なのだと。
マルコがドーナツだとして、そこに穴を開けたのは間違いなく母親で、そしてその穴を埋めたのがルディとポールであると私は言いきれる。
そしてそれがどの愛とも比べようもなく愛しいモノだと言える。
ルディの母の顔が好きだ、変わっていくポールが好きだ、マルコの笑顔私も大好き。
音楽が凄く良かった。歌声も。ディスコダンスも。
「寝る前のお話が大好き」
「ハッピーエンドが好きで…」
「いつもせがむのはハッピーエンドで…」
何故マルコの未来の話をマルコが居ないところでするんだろう。何故マルコの人生なのにマルコが居ないところで決めようとするんだろう、という私からすれば当たり前の疑問が多すぎる。
これが世の不条理と不平等なのだとしたら、こんな世の中生きてるだけで凄いんだよ。多分、きっとね。
“今はまだサヨナラは言えない”
私もサヨナラは言わない。
この愛がいつまでもチョコレートドーナツの様に胃に残るくらいの甘ったるさであればいい。
…と、まぁこれが実話なわけでして。
これが『感動作』って言われるくらいには世の中は成長してるんだよな、世の中映画より先に行けよ馬鹿。