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ゴーン・ガールのnaoズfirmのレビュー・感想・評価

ゴーン・ガール(2014年製作の映画)
3.7

サイコキラーから生還した奇跡のヒロイン🎬

ストーリーは2002年のアメリカで起きたスコット・ピーターソン事件がモデルとなった作品でした。今作は「セブン」「ソーシャル・ネットワーク」の鬼才デビッド・フィンチャー監督がギリアン・フリンの全米ベストセラー小説を映画化した作品です。今作を一言で表すと"人生を賭けた壮絶なパワーゲーム"という言葉が相応しいです。

"テーマ"
今作は、「結婚とは何か?」という問いに対し、状況だけを極端に誇張しつつ、でもその本質的な部分は変えることなく、恐ろしいほど正論でシンプルな回答を突き付けていると思いました。今作では夫婦とは互いに”役割”を演じることで良好な関係性を保つことができるものだと感じました。身も蓋もないほど”夫婦”というものの真理を突いていると思いました。フィクションとはいえ、あまりにも真に迫りすぎていて、だからこそ余計に怖さが増したのだと思いました。そして今作における最大のポイントが、エイミーのキャラクターです。とにかく、思考も行動もムチャクチャで、絶対に身内になりたくない女性ですが、そのキャラクターがあまりにも面白すぎました。用意周到に計画を立てている割には、潜伏先で全財産を盗られて枕を抱えて泣き叫ぶなど、妙に人間臭くて笑えてきます。さらに、どんな窮地に追い込まれても決して諦めないバイタリティといい、この期に及んでもまだニックのことを「愛してる」と言い張るふてぶてしさといい、「自分勝手を極限まで極めたらこんな人間が出来上がる」という大迷惑な性格も含めて「何周も回って逆に面白い」みたいな状態です。人間的には最悪だが、単なる悪女ではないところが大きな特徴だと思いました。もしエイミーがこういうキャラじゃなかったら、この物語はもっと悲惨で救いようの無いものになっていただろうし、映画もここまで面白くならなかったと思います。まさにエイミーの圧倒的な存在感が『ゴーン・ガール』の作品価値を上げたと思いました。

"見所"
今作を観ていると私たちはニックに肩入れするのか、それともエイミーに肩入れするのかという2つの立場に常に揺れることになります。デヴィッドフィンチャーが切り取る映像にそれだけインパクトがあるからです。デヴィッドフィンチャーが提示する映像=イメージは絶えず私たちに、イメージの創出と改変を要求してきます。そしてその姿は映画の中でテレビから流れる映像情報に踊らされるアメリカ国民に重なります。「ゴーンガール」という作品は、映画の中でテレビから流れる映像に右往左往するアメリカ国民と、この映画において描き出されている映像に右往左往する私たちがリンクするというある種のメタ構造になっていると思いました。今作を観ている時、私たちは劇中の野次馬の1人となっていることに気づきます。そして画面に映し出される映像に私たちは絶えずイメージを描き続け、映像は絶えず私たちの作り出したイメージを裏切り、新たなイメージの創出を要求してくる。そんな作業を繰り返していると、ラストに衝撃が待ち構えています。ラストで、初めて映画の中の野次馬たちと、映画を見ている私たちを明確に対比的に描いています。映画の中の野次馬たちが思い描くのは、ニックとエイミーは奇跡的に再会でき、さらには子供まで授かった幸せな夫婦のイメージです。一方で、デヴィッドフィンチャーが提示する映像を見た我々が思い描くのは、恐怖と子供という名の人質によぅてエイミーがニックを支配する仮面夫婦というイメージなのです。今作はある意味で、映画というメディアの映像、恐ろしさを映し出しているようにすら感じられます。映像というものは、活字メディアが与える以上に強いイメージを見た者に与える事ができ、映像が白のイメージを与えれば、世論は白に傾くし、逆に黒のイメージを与えれば、黒に傾く。映画も映像もイメージ志向のメディアであるがゆえに、一歩間違えればプロパガンダ的になることすら有り得ます。または間違ったイメージを作り上げることも可能なのです。映画ないし映像メディアの最大のストロングポイントをポジティブな側面から捉えるのではなく、ネガティブな側面から捉えたことこそ今作が孕む真の恐怖だと感じました。
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