たけき夏アニメーション

日々ロックのたけき夏アニメーションのネタバレレビュー・内容・結末

日々ロック(2014年製作の映画)
1.0

このレビューはネタバレを含みます

入江悠監督が好きなので結構期待して見に行ったのだが、これはあまりにも酷すぎる…

全体の印象としては、簡単にいうと2000年代に大量生産された本当にしょうもない邦画コメディの類に近い。

もっと分かりやすく言うと、
「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」内の映画評論コーナー「シネマハスラー」で、特に初期によく叩かれ、年間ワーストなどにも選ばれていたダメ邦画たちのような、そんな映画だった。

何が一番悲しいって、そんなダメ邦画『日々ロック』を監督したのが、同コーナーで2008年の年間ベスト1を獲得し、宇多丸氏の心の映画とも言えるインディ邦画コメディの傑作『SRサイタマノラッパー』を作った入江悠監督だという点だ。

「日本映画業界は入江監督に商業バジェットで映画を撮らせるべき」とも宇多丸氏に言わしめた入江監督が、実際にこういったメジャー商業作品を録ってみた出来がこれというのはにわかに信じがたい。
俺は信じたくない。

『日々ロック』を見ている時はシネマハスラーで気の利いたダメ出しをする宇多丸氏の声が頭の中で逐一聞こえてくるような気がした。



具体的に何がダメだというと、


まず映画全体が悪い意味で一本調子なハイテンションドタバタの繰り返し。

誰かが大声で何か叫ぶ

誰かがそれに対して大声でつっかかり、場全体で喧嘩になる

無意味な集団ドタバタ暴力が繰り広げられる

殴られたりした人が一々顔芸

周りに取り巻いている奴らが喧嘩をみながら「うぉ、うお〜」とうろたえている

いつもの感じの濃い味キャラの竹中直人が殴りに来る

日々沼白目を剥く

ザ・作り物な血やゲロが飛び散る


誇張はあるが大体こんなのの繰り返しが延々続く感じだ。


悪い意味でのバカさは集団ドタバタシーンだけにとどまらない。

多くの人が指摘するように、日々沼のキャラがただ頭の弱いバカとして設定されていて、まともに喋ることも歩くこともままならない。キ印はキ印でも最も悪い意味でのキ印。見てて格好良くも楽しくも無い。心の底から無意味。

ビジュアルバンド、ランゴリアーズのボーカル(桐島のパーマ野郎)の白目を剥く顔芸も同じく心底無意味。

これらはシネマハスラーで言うところの、所謂「ベロベロバー」だ。

おもしろい顔など、筋と関係の無い安い一発ギャグを無意味に入れて、無意味な笑いをとろうとする低俗な行為。
映画的面白さ、映画的快感とは対極の位置にある最低な演出。

白目や変顔といった、「これぞベロベロバー」をはじめ、前述したドタバタシーンなど、この映画の根底には常に広い意味でのベロベロバーが敷き詰められている。


鈴木則文的なもののオマージュだと言われればそれまでかもしれないが、映画日々ロックに漂うこの程度のバカさ、この低俗さを愛する映画ファンはあまり存在しないと思う。


映画版の出来への怒りと、「原作は素晴らしい」との声から原作も全て読んでみたが、
原作は紛れもない傑作だった。

反してこの映画版は、原作の(主人公日々沼をはじめとする)「ロックとはなにをもってロックなのか」という問いかけと回答を、考えうる限り最も表面的で浅はかな形で映像にする。


原作『日々ロック』では、日々沼は全ての事に自問自答する。

---チンコを出すのがロックだと言われているが、果たしてそれは正しいのか?わざと脱ぐというパフォーマンスをする事に意味はあるのか?---

そういった事を一々悩み、考えに考えぬいた先に、それでも日々沼のどうしようもなく奏でる音楽にロックがある。
これはロックという「悩んだまま、悩みとともにそれでも踊る音楽」それそのものの事でもあった。

映画版ではこの「悩み、考える」という重要な部分を日々沼の白痴化とともに完全に欠損させていて、
日々沼が「あぁぁ…、あぁぁぁ…」と顔芸と痙攣芸でヨタヨタと走り出して、なんとなく実行するという流れになっている。

好意的なレビューなどを見ると、よく「これぞロック!熱い!」みたいなのを見かけるが、ちゃんちゃらおかしい。

日々沼のナアナアな痙攣芸のその先で奏でられる音楽がどんなにいい音楽だったとしても、これはロックではない。
少なくともこの映画的には全くロックではない。
ただの付け焼き刃の「良い演奏シーン」でしか無い。



ランゴリアーズのボーカルについても同じく原作のニュアンスを限りなく矮小化して表現される。

原作での彼は、(ちょっとビジュアル色のある)人気バンドのフロントマンでいながら、性格悪いわファン食いまくるわで最低な奴。

だが、日々沼よりも確実にカッコいい見た目でモテまくるし、音楽能力も高い。女の子を簡単にホイホイ食えてしまう厚顔無恥さと男性的魅力も残念ながら持ち合わせているという、現実にも十分にありえるようなキャラクターだった。
原作での彼は、売れる事とは、人気とは、商業的ジャンル付けとは、バンドマンファン食い問題、といった様々な問題を考えさせる人物であった。

そして、そういう奴らから屈辱を味わわされた後にバンドバトルがあるからこそ原作は素晴らしく盛り上がれたのだ。


映画版ではここまで様々な要素のあるこのキャラを単に、

ロックンロールのジャンル的敵として設定されたザ・ビジュアル系に設定し、
超バカな白目剥きと面白い喋り方という薄っぺらいキャラ付けをする、
というこれぞ「ベロベロバー」の極みまで狭めている。


限りなく安っぽい、しかも原作を侮辱したようなキャラ付けをされたキャラクター達が延々とグダグダドタバタを繰り広げた挙句、何と無くロック的に"熱いっぽい"感じの演奏をする。

『日々ロック』はそんな映画だった。




さらに大きくもう一つダメな部分は、


繰り出される小ネタギャグが最悪。


本当にいま思い出しても最低な粗末なギャグばかりだった。


一番酷かったのは、二階堂ふみ演じるヒロイン、宇田川咲のライブ後に日々沼と咲が密会するシーン、二人の後ろで警備員と掃除のおばちゃんの逢引野外セックスが始まるところ。

これもまさに、「喘ぐおばちゃんと、おばちゃんに夢中な警備員出せば面白いだろ?」な、ザ・ベロベロバー。
この小中学生レベルのギャグだけで辛いのに、日々沼と咲が割と重要な会話(ラストにも繋がるような)している後ろで延々二人の喘ぎ声が続く続く!
だからメイン二人の会話の内容は頭に入らない!
気を散らせる喘ぎ声の内容は「あぁ!イイよ!あぁ!」みたいな一本調子なので、本当に無意味!


入江悠お得意のアジア人労働者ギャグも粗末なもんで、干物工場でのアジア人労働者の扱い、日々沼が失敗すると訳のわからない外国語で突然怒鳴りつけるというシーンは、「外人が外国語で突然キレたら面白いだろう」な差別的で低俗な考えが滲み出るようなものだった。

映画としてメチャクチャだとしても、間に挟まれる余計なギャグが面白ければそれはそれで一瞬楽しめたかもしれないが、日々ロックではそれすら最低水準ベロベロバーだ。


本当に無意味。
日々ロックにはロックどころか何も無い。ロック音楽がたまに演奏されるだけのゲンナリ映像。
意味の無い不快なドタバタ暴力の果てに、「でもロックじゃん!」と言葉だけで走り出して、ロック的な演奏をするだけ。

この無意味スタンスは、冒頭、地元の暴力ヤンキーから全く言われの無い大暴力を受けるシーンの「なんで暴力受けなきゃいけないの?」なゲンナリ感と、後半で彼が「ロックだろ?」となぜか少し協力してくれるシーンの「なんでこんな奴が若干いい奴として演出されているんだろう?」な腑に落ちなさで、より一層際立ったと思う。

繰り返し言うが、この無意味で浅はかな演出の全ては、原作『日々ロック』の描いたものからは最も遠いものだ。

あと、宇田川咲の宣伝用トレーラーを見てわざとらしく写メを撮り出すモブの感じ、ああいうあざといモブ使いも本当にイヤだった。

まあそんな感じです。


とにかく、これがあの入江悠監督作品だというのが何よりイヤだし、
愛聴している、入江悠プレゼンツ『僕らのモテるための映画聖典』というネットラジオでも、入江SR組のパーソナリティ達も軒並み絶賛一点張りしていて、身内作品とはいえあまりにもふがいない気持ちになった。


(唯一良かったのは蛭子さんと前野朋哉くんの顔が相当似てて、一緒に立ってるとめっちゃ笑えるとこ。
あと、最近の邦画コメディ出過ぎなButchさん(ビッグウェーブの人)がずっと後ろの方で見切れてるのは好き)