学生時代にある女の子から「あなたが思うように、人は清らかには生きられないの」と言われたことがあり、分かる?とつけ加えられた表情を見ながら、そうか、俺は清らかさを大切な価値観にしていると思われているんだと、苦笑したことがある。
そして、20年以上の歳月が流れたあと、再び別の若い女性から、同じようなことを言われたときに、なるほどと納得した。あなたは素晴らしい人だけど、わたしは生きていかなければならないの。
つまり、彼女たちが見ていたのは僕ではなく、あくまでも彼女たち自身に宿る屈託であり、感情の坩堝(るつぼ)のようなものだった。僕という人間によって彼女たちの何かしらが触発され、その結果として、好意を向けられることもあれば、訳もなく憎しみの感情を向けられることも多かった。
女たちが問題にするのは、どこまでいっても彼女たち自身でしかない。
グザヴィエ・ドランの語りの魅力は、濃密な女性性を彼自身に宿しながら、しかし、このことについて語ろうとする際には、どこか男性性に根差した構成感のうちに、発露している点にあるように思う。
感情を激しく迸(ほとばし)らせながらも、箍(たが)が外れない。また、だからこそ、樽(たる)から溢れ出そうとする感情の奔流(ほんりゅう)が、いっそう際立つことにもなる。
この映画に描かれるのは、2人の女と1人の少年ではあるものの、『マイ・マザー』(2009年)で監督自身が主演した少年のように、実質的には3人の女たちと言って良いように思う。
シングルマザーのダイアン(アンヌ・ドルバル)、その息子でADHD(多動性障害)を抱えるスティーブ(アントワン=オリビエ・ピロン)、隣人で休職中の教師カイラ(スザンヌ・クレマン)。
映画の冒頭で、運転中の母親のダイアンが、横から激しく追突される事故シーンから、この作品の主調(ドミナント)が端的に示される。彼女たちが何かを深く分かち合うときには、必ず交通事故のように、不条理な条理のなかで激しく追突したときに限られる。
このことの前に、画面アスペクト比が1:1であることや、映画の中間で、一瞬未来が開けたかのように見えたときのみ、通常のシネマスコープ(2.35:1)になることなど、それほど効果的だったとは思えない(そのように演出した監督の気持ちはよく分かるとはいえ)。
それよりも、女が女として生きるということの原理や、そのように生きるときの風景が、どのように鮮やかさを生きるのか、もしくはどのような鈍さに沈むのか、一緒にいるときも、離れているときも、どのような関係性を結び、もしくは解(ほど)いているのかを、これほど偽りなく描き出すことは、グザヴィエ・ドランにしかできないのではないか。
ルイ=フェルディナン・セリーヌ(1894 - 1961年)について、マルセル・プルースト(1871 - 1922年)よりも優れていると言った、『わたしはロランス』(2012年)の主人公のように。
★カナダ