KENT

オマールの壁のKENTのネタバレレビュー・内容・結末

オマールの壁(2013年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

 この作品を、パレスチナ問題というテーマをはじめから頭において作品をみるやり方は、果たしてどうなのだろうか。もちろん、大いに関係はする。しかし、私たちの物語でない、とは言えないものである。そして、むしろ、私たちの物語である、と僕は言いたい。

 ちょっと話を広げる。もともと、なぜ映画や文学がこの世界にあるのか、という問いに答えたいというモチベーションが私にはある。表現としての芸術。高尚な、社会派の作品。そうしたものをを「文化的である」とコメンメーターのように評価するには簡単だけど、それは次の問い、果たして人間にとって「文化的である」とはなんなのか、という問いを生んでしまう。

 なぜ芸術か、という問いには、芸術を鑑賞したり創ってみたりするときにどういった効果があるのかを観察することで見つけられるのではないか、なんて考えてみる。

 仮に、この前提を認めるならば、「作品の見方」は「なぜ芸術か」につながり、もっと大げさに言えば表現とはなにか、ということにもつながるのではないか。そして、芸術という表現を通し、文化を創る人間のあり方へも。

 では、なぜ上のパレスチナ問題として、この作品を見ないのか。単純だが、なるべく作品を偏見のない目で見たいという動機からである。あの人は悪い人だよ、とささやかれるとなんだか本当に悪人に見えてくる。実際、悪人である証拠が見つかる。そう思えてしまう。本当に悪人なのかは、少なくとも自分の目で確かめなくてはならないのに。

 幸か不幸か、私はパレスチナ問題に詳しくない。だから、こうしたやり方がマッチした。というより、こうしたやり方をせざる負えなかったというのが正確なのだが。まあともかく、結局は、この物語を私たち人間の物語として見たのである。

 主人公のオマール、幼なじみのアムジャドと
タレク、恋人のナディアが主な登場人物でイスラエル側に秘密警察やその捜査官のラミなどがいる。「パレスチナ問題」と考えると、主人公側とイスラエルな側の対立として捉えることが出来る。すなわち、主人公がパレスチナ側だから、作品のメッセージはイスラエル側を批判することにある、と。

 しかし、この映画はそうは描かない。

 もちろん、紛争を肯定はしない。イスラエル側を肯定することもない。というか、批判はしている。ただ、作品のメッセージ、力点を置く場所はそこにはない、という話だ。

 では、どこにあるのか。私は、「信じる」という行為にある、といいたい。

 まず、私がこの映画を見終わった感想について述べたい。単純に、この作品を見終わった瞬間、なぜ主人公はラミを殺したのか、という疑問である。

 そして、「なぜラミを殺したのか」、と私はなぜ思ったのか。ややこしいが、この二つは区別するべきである。私の感想と作品の仕掛けを区別するためである。

 上の質問には、ラミがそんなに悪人に見えないからではないか、と答えてみる。悪人を殺すのは悪ではない。善人を殺すのは悪人であるが、主人公は悪人に見えない。つまり、ラミは悪人でも善人でもない、普通の人間として受け取ってしまったのではないか。

 ラミは捜査官であるが、家族がいる。そして、たぶん誠実に愛している。人間的、人道的な姿がオマールの前で描かれる。

 そして、その後、オマールはちょっとしたジョーダンを言う。これは、オマールがイスラエル軍の襲撃容疑で警察につかまり、秘密警察側からのスパイ活動を裏切った後の、2度目の拘束の中での場面。

 ここの場面では、オマールがどちらに転じるか、は読みとれない。親友を裏切り恋人との暮らしを得るのか。警察を裏切り、イスラエルへ対立するのか。

 そして、ラミは、アラブ人、イスラエル人であることがわかる。これも、一つラミの人間的な描き方を重層的なものにしている。ラミはイスラエル側であり主人公と対立する単なる悪である、とは言えないのだ。

 最後、主人公のラミを殺すことへの違和感はここにある。悪、というよりもイスラエル側の中では主人公に良くしている。彼には彼の立場がある。そして、立場上のジレンマがあるにも関わらず主人公にも出来る限りのことをしている。もちろん良い人ではないが、悪い人でもないのでは、と言いたくなる。そして、そんな人をなぜ殺すのかと、思いたくなる。

以上が、私が抱いた「『なぜラミを殺したか』という問い」への理由である。つまり、ラミ=悪ではない。

感想未完
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