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百円の恋のisknのレビュー・感想・評価

百円の恋(2014年製作の映画)
4.0
淡々と映し出される生気のない女の自堕落な生活。動きはするものの、その目は全く死んでいるかのようだ。生きたいという意志さえ感じられないその声。彼女の心を表象しているかのような、どんよりとした天気と、立ち並ぶ色のない街並。働きもせず甥っ子と家でゲームをし、家で提供してもらえる飯を食う。体はぶくぶく太っていて、部屋は何日も掃除してないと分かるほど散らかっている。冒頭から主人公イチコの痛い生活がひしひしと映し出される。果たしてそんな人生底辺女は、どうやってそこから抜け出していくのか。観客はじっくりと腰を据えて、彼女と向き合うことになる。

前半と後半のイチコの変化が見事な映画だ。ぼんやりとどこか古ぼけた前半から、爽快感溢れる彼女の駆け上がりとフットワーク、それが軽妙な音楽に乗せて描かれて行く。彼女の体格の変化、性格の変化が見ていて気持ちのよく、疾走感に溢れている。

百円の恋と歌っている以上これは恋愛映画なのだろう。けれど僕は本作をアイデンティティの確立の物語だと読んだ。

ポイントは”痛み”である。

なぜ彼女はボクシングに惹かれたのか。なぜ試合に出ることにこだわったのか。その隠された物語を読み解くと映画が一層面白い。

彼女は『痛み』を求めていた、いや必要としていた。何かを殴ったことがある人は分かると思うが、あれは結構痛い。それは、たとえミットをつけてても同じで、控えめに言ってかなり痛いはずだ。そして、時に痛みは自分の存在を明確化する上で、大きな装置になりうる。昔、読んだ本にリストカットをする女性についてこんな風に書いてあった。つまり、リストカットをする事で感じる痛み、そしてそこから流れ出す鮮やかな血を見ることをを通じて、かろうじてその瞬間自分が存在していることを確認できるのだ、と。確かに普段生活をしている上でぼんやりとした自分の存在だが、怪我を負ったり病気になったりするときに、自分が生きているのだと確認できる。哲学者のサルトルが書いた小説には、嘔吐を通じて自分の実存を確認できる主人公が登場するが、確かに痛みは自分に存在感を与えてくれる。

だからだろう。いちこは例え周りに無謀だと言われても、どうしても試合に出たかった。そして、ボコボコに殴られたかったのである。これでもかというくらいのパンチをくらい、血反吐を吐き、ボロボロになる主人公。意識が朦朧とし、ここがどこかもわからなくなるような状況の中で、彼女は確実に感じたはずである。今、自分が、ここで生きているのだという実感を。イチコは意識してか、無意識か自分が生きているのだと教えてくれる何かをどこかで求めていたはずだ。こんな生活から抜け出したいという欲求。そして彼女が見つけたのはボクシングだった。いやボクシングしかなかったのである。

結局のところ、怠惰で自堕落な生活を抜け出すには、あれほどの痛みを感じなくてはならないのか。そう考えると、なかなか辛辣な映画ではある。しかし、そんな押し付けがましいメッセージなど映画からはなく、一人の痛い女の遅れてきた青春群像劇として、本作は最高のエンターテイメントだ。

戦いに敗れたイチコが放つ「勝ちたかったよ」というセリフは印象的だ。勝ちたかったという言葉は戦った者にしか言えないセリフで、彼女はもう決して前の痛い女なんかじゃないのである。そして、クリープハイプのしゃがれた声に乗せて流れるタイトルバックは、邦画史に残る名シーンの一つだと思う。
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