宇野亜喜良の世界の捉え方。
宇野亜喜良展で上映されていたので、しかと目に焼き付けて参りました。
これを映画と言っていいのかは、私には分かりません。
台詞はなく、ナレーションや字幕が付されることもありません。
すべて観客に委ねられており、おそらく殆どの人が解釈を諦め、裸足で逃げ出したことでしょう。
ですが、私はこの映像に全身全霊をもって挑んでみたくなりました。
正直イメージカットの連続で、解釈の幅は無限大ですし、そもそも宇野亜喜良さん自身もそこまで深く考えていないかもしれません。
以下に続くのは、完全に私の解釈、妄想の範疇であり、論理的な根拠は全くありません。
ただ、只の映像に意味を見出すという行為として考えてもらえれば、いくらか楽しんで頂けるのではと考えています。
さて、前置きが長くなりましたが、早速私の作った物語を書いていきます。
結論から申し上げますと、この映像のテーマは人間の可能性とその否定だと考えました。
象徴的なカットを積み重ねることによって、人間というものを枝分かれさせていき、人間の可能性というものをすべて炙り出し、順番に否定していく過程を追った内容であったと、カットごとに文字起こしをし、それぞれを有機的に結び付けた結果、そう結論づけるに至りました。
まず開く動作の反復が画面の運動として現れますが、これは人間の誕生、生命の始まりを謳っているのだと思います。
一生の始まりが描かれた後、奇抜な女性が前後で奥行きがつけられながら横切っていきます。
この前後がポイントであり、奥側が猫や鳥、花(植物)といった何らかのものに変化するのに対して、手前にいる人物は変化しないのです。
これは自己実現の有無を示していると受け取り、夢をもって生きるか否かの2つの選択、その対称的な人間を視覚的な差を用いて描いたのだと解釈しました。
そこから場面は変わり、電球に閉じ込められた少女と、メリーゴーランドに乗った少女たち、フラフープで遊ぶ少女が描かれます。
先ほどの横切った女性は大人だったのに対し、こちらは子どもです。
幼少期における違いを、遡って描写したのでしょう。
電球に閉じ込められた少女は、端から自由のなかった、自己実現の有無よりももっと前からガラスの中で光り続けることを強制された存在であり、メリーゴーランドに乗ったり、フラフープで遊んだりしている子どもは自由の選択権がある存在だと考えることができそうです。
自己実現の有無だけで終われば凡庸な内容ですが、しっかりと小さいころにまで視線を向け、取りこぼすことなく描写しているのは流石としか言いようがありません。
その後、少女のアップの顔が映され、涙を流し、その涙の粒が錨となって海の底へと沈んでいきます。
これは電球少女のことを認識し、同情した結果、自分が自己実現を果たすことに疑問をもった少女が、ある種電球少女と同じようにその場で留まることを決めたという場面だと、読み取ることができるのではないでしょうか。
もしかしたら、メリーゴーランドという一般的な少女社会に馴染めなかったフラフープの少女が、自分の居場所を見つけたと思い込み、そのような行動を取った可能性もあります。
どちらにせよ自由を選び取った少女もいれば、元から自由がなかった少女、自由はあったがあえて選ばなかった(もしくは自分を確立するために不自由を選んだ)少女がいたということが描写されていたのだと考えました。
幼少期に遡ったことで、3つの選択が生じたものの、既に2つの未来が潰えたとも捉えられるのは、非常に恐ろしいことと言えるでしょう。
ですが、まだ生き地獄は続きます。
少し闇を孕んだような表情を浮かべる宇野亜喜良さんの絵は、この映像を通して伝えようとしている感覚のかなり近いところにある気がして、そういった意味でもこの映像の末恐ろしさ、高い説得力には脱帽するより他にありませんでした。
次のカットでは、指の生えた下半身が空を飛んでいます。
この時点で何を伝えたいのかと匙を投げてしまう方も多いかと思いますが、この生物の意図する可能性は、最初のシークエンスにおける猫や鳥、花(植物)に変化した、自己実現の道を選んだ人間の1つの未来であると考えられます。
空を飛んでいるということは自由を実現し、自分の思う通りの生き方ができている、そう思いたいのは山々ですが、宇野亜喜良の世界はそう甘くはありません。
右方向を指差した下半身は謎の箱を持っており、その箱からは左方向を指し示した指が出ています。
下半身は右方向ではなく、謎の箱から飛び出た指が指し示す左方向に飛んでいるのです。
何となく言いたいことが分かった方もいるかと思いますが、要するに下半身は自分の意思とは反して、空を飛んでいることが分かるのです。
自由のもとに自己実現を果たし、空を飛んでいた筈なのに、気が付けば謎の箱(上位存在の示唆かもしれません)が思うまま、自分の意思(あるいは、夢や目標)とは反した生き方をしているという、現実世界でも有り得る状況に陥っていることを読み取ることができます。
書き忘れていましたが、最初のシークエンスでの前後で横切る女性において、手前側は自己実現を選ばなかった存在として、暗喩的に未来のない人間として解釈しました。(次の幼少期シークエンスにおける電球少女、錨少女と同様の結末と言えると思います。よって、残された可能性は、メリーゴーランド少女たちの先にいる、自己実現女性たちだけなのです)
ここですべての可能性が潰えたじゃないかと指摘してくる方がいるでしょう。
ですが、まだ可能性は残されています。
ここで登場するは2人の道化、1人は様々な表情のお面を肩から下げており、もう1人は頭から花を咲かせています。
カットは切り替わり、続けて何人かの女性が映されます。
1人は何らかの物に囚われた美女で、一方は鳥と猫と共に横切った女性たちです。
明確に、2人の道化と、続けて映された女性たちは対応させて登場させているでしょう。
前者に関しては、道化シークエンスの前に挟まれた指下半身の補足と言える内容と見て間違いないでしょう。
指下半身は自己実現を選んだものの、結局誰かに動かされることとなってしまった可能性です。
それは借り物の表情を教える1人目の道化と出逢ったことによって決定付けられ、内から出た心ではなく外から植え付けられた心で生きてしまったことが要因なのだと思います。
もう残された可能性は1つしかありません。
自己実現を選び、他人に指図されなかった、頭から花を咲かせることができた可能性です。
ここで黒色を背景に、馬に乗った女性が登場します。
彼女が最後の可能性の使者なのでしょう。
カットは変わり、真っ白な世界に黒い煙が漂い始めます。
これは彼女の心の内であり、真っ白、つまりは自由な世界のもとで戦っていたつもりだったのだが、やがて黒い煙が漂い始め、自己実現は歪んでいくのだと示唆しているように感じました。
そうして、また別の2人の女性が登場し、1人は畳まれ、もう1人は風かなにかに吹かれて折れてしまいます。
もう言わずとも分かるでしょうが、自己実現を選んだ可能性の結末を端的に表現してきたのだと思います。
指下半身や、何らかの物に囚われた美女は前者に相当し、外部からの圧力によって屈してしまいます。
また、頭から花を咲かせた女性や、馬に乗った女性は後者に相当し、内なる弱みが徐々に大きくなって自己が揺らいでしまうことを、映像的に示したのでしょう。
最後には物憂げな表情を浮かべた女性が登場し、この映像は終わります。
物憂げな表情が意味するのは、当然ここまでで嫌というほど示されてきた可能性を理解しているからであり、それでも生き続けねばならないのかと自問する気持ちの表れであると考えました。
以上、台詞もナレーションも字幕もない、単なるイメージカットの連続から妄想した、私の物語です。
どれだけ正当性があるのかは分かりませんが、これを読んでこの映像に興味を持ったり、文章を読んで楽しんだりしてくれていれば幸いです。
最後になりますが、作品の表面上の特異な点を簡単に書き記した後、まとめを付してこのレビュー(となっているかは怪しい)の〆とします。
この映像は実写とイラストが極めてアナログなかたちで融合し、独特な空気感をもって進んでいきます。
宇野亜喜良さんのイラストの、キャラクターの可愛さやミステリアスな雰囲気は素晴らしく、それだけでも観ていて楽しめます。(思考を巡らせ始めると頭が痛くなりますが……)
全編モノクロのため、その点も雰囲気を良くし、この映像らしさ、独自の味を醸し出すことに成功していたと思います。
説明的な部分の一切を排除しているため、敷居が高くなっているのは間違いありません。
観客に対する要求値が高く、投げ出してしまう人の気持ちもよく分かります。
7分という尺ではありますが、体感時間は10分以上あった気がしますね。
その辺りも評価としては困る部分でした。
総じて、先鋭的で飲み込みづらい部分は多々あれど、独創的な世界観と端々から読み取れるテーマ性に考えさせられる映像集でした!