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レヴェナント:蘇えりし者のその他のレビュー・感想・評価

レヴェナント:蘇えりし者(2015年製作の映画)
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イニャリトゥ作品にしてはまあまあわかりやすく「復讐するは我にあり」(ローマ人への手紙 第12章19節)な話で、レオナルド・ディカプリオ演じる罠猟師のグラスがグリズリーに襲われ瀕死の状態に陥るも目の前で仲間に息子を殺されたことによる復讐心によって一旦蘇り(=revenant)復讐に生きながらも、しかし果たして復讐のために生き復讐によって人を殺すのはよしとされるのか?を見つめなおすんだけども、しかしそれで片付けるにはそもそも舞台設定が壮大かつ複雑すぎた&史実と原作のすり合わせが上手くいかないので飲み込むのが困難だった。

ヒュー・グラスは西部開拓時代に実在した罠猟師で、この映画自体もマイケル・パンクの伝記小説『蘇った亡霊:ある復讐の物語』をベースにしたもの。
しかし史実としては彼が熊に襲われ仲間に見捨てられながらも無事その足で生還したというのは事実らしいものの、原住民との間に息子がいたというのはフィクション。つまりこの映画の肝の部分である「息子」の存在は完全に脚色なのである。
ちなみに瀕死の彼を見届ける人間を2人募り、名乗り出たのがブリッジャーとフィッツパトリック(なぜか彼だけ名前がちょっと違う)という若者で、間も無くしてグラスを見捨て帰還した先で「グラスは死んだ」と嘘をついたのも事実らしい。ブリッジャーは騙された可能性があり自発的な裏切りではなかったのではという配慮は映画にも出ていた。

難しいのがタイトルの「レヴェナント(revenant)」の解釈。
原作についたRevenantは「見捨てられた」という裏切り行為からの怒りで生命力を取り戻し、つまり復活し、「死んだと思ったら生きて帰ってきた」ことに対してこのタイトルをつけたんだろうと単純に考えられるけど、映画ではあからさまにキリスト教のアレゴリーやシンボルが挟み込まれていたのでまた意味が変わってくる。

キリスト教での「復活」はイエス・キリストを想起させるけどもグラスは「愛する人を殺された」ことに復讐の炎を燃やしているのでむしろ役割としてはパウロの方が正しい。ちょいちょい出てくる「復讐は創造主の手に委ねる」はまんまパウロの言葉だし。
かつRevenantは単に「復活」と訳すには少し霊的すぎて、ニュアンスとしては「長い不在から戻る」つまり「死から蘇る」が近い。名詞だと幽鬼とか亡霊とか。単純に「回復」だとかいう生命力のある言葉ではないのだ。(あと、ブリッジャーがグラスに与えた水筒のうずまき模様はおそらく古代ケルトのトリスケルと呼ばれるシンボルで「復活」「成長」「進化」を意味するもの。なんでこんなあからさまにと思ったけどもグラスのものと判別するためでもあったのか。)

ここと映画における脚色とをすり合わせてみると、映画のrevenantとは「生還」ではなく「復讐に取り憑かれることから復活する」ことを意味していたのではないかと考えられる。グラスは計らずもキリスト教の寓意的体験をし、キリスト教における「正しい行動」とは何かを見出すのだ。

で、まあこの解釈が正しかろうと正しくなかろうとどちらにせよグラスは「復讐は創造主の手に委ねる」と憎い人間にとどめをささず手を放すけれども、けど手を放したところでフィッツジェラルドが別の人間に殺されるだろうというのは目に見えていたのでなんというか一旦「殺す」のを段階として分けただけというか「復讐するは神にあり」ってそういうことか?とも思ってしまった。この辺はグラス本人の気持ちの問題だろうけど。

特に納得いかないのは西部開拓時代を背景にしていて入植者と原住民との戦いも映画にも幾度も描いているにも関わらず常に白人目線で「復讐するは我にあり」と言っていて、いやあんたたちの目から見ればそうだろうけど原住民からしたらそんなこと言われたって知らんだろうと。
史実と原作をできる限り尊重して書きたいテーマを書こうとしたらああなってしまったんだろうけど、完全に原住民の人びとが置いてけぼりで白人の間でキリストの教えに芽生える芽生えないをやり合っていてそりゃないだろう。

あまりに扱う問題が複雑すぎたのでウーンとなったけど、映像・演技は凄い通り越して凄まじくえげつない。過酷な物語と過酷な設定をあえて過酷な手法で過酷に写していて、そりゃあディカプリオに賞あげないと可哀想すぎるよ…。割と早い段階で瞳孔が開きまくっていて心配だった。
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