スローターハウス154

沈黙ーサイレンスーのスローターハウス154のレビュー・感想・評価

沈黙ーサイレンスー(2015年製作の映画)
4.1
2021/4/24

もし自分がキリスト教圏のキリスト信者でこの映画観たら「昔の日本コワすぎwwなんかキモww宣教徒たちマジ勇者ww」って思う気がする。
虫の声とか映像とかでじっとりした日本の自然をこの映画で嫌というほど感じさせられるんだけど、この言葉で言い表せないような自然への畏怖、アニミズムに対して、視聴者が属する文化によっては「気味悪さ」と感じてしまう映画なんじゃないかなと思います。
もうすでに強固な文化が存在し、それが人々に浸透しきっているような国に、自分らの神様を布教しようなんていうのはかなり無理ゲーな気がするんですが、それでも奮闘したキリスト宣教師達がいたという話。

日本だけじゃないんだろうけどキリスト教が布教されるにあたってなぜ貧民から厚い支持をウケるのかを考えさせられた。切支丹となった貧しい百姓達にとっては、従来の仏教はお上が彼らを搾取するための思想なのだと気付かされたのかもしれない。
そして始まる仏教とキリスト教の対立。切支丹の厳しい道を選んだ百姓たちが得たのは神への信仰心というよりも、「選択の自由」なのかもしれない、と思った。この貧しく苦しい生活は変わらないかもしれないが、しかし私達は神様という心の支配者を選ぶことができる。仏ではなく、デウスを信じればこんな苦しみの人生にも意味を見出すことができ、やがてパライソに迎えられるのだ....。
そんな彼らの崇拝するキリスト教は「基督教」であって、彼らはその「切支丹」なのである。ロドリゴら司祭たちはキリスト的アイテムを持ってなくてもわりかし平気だけど、切支丹らは藁で十字を作ったりと目に見える形でなにかと所有したがるなど、宣教徒達がもたらした宗教と微妙に異なる宗教観がうかがえる。
いわば信仰がガラパゴス化しているというか。
つまり切支丹であろうとやっぱり彼らも日本人なわけで、どうしても慣れ親しんだ自然信仰と結びつけてしまうところがあるのだろう。
司祭たちもその越えられない異文化の壁を認めてあげればよかったんだろうけど、彼らはそんな日本人の心(文化)を理解できない。あるいは理解したがらないのか。
「神への忠誠心は絶対に踏み絵を踏まないこと」というお手本を一番最初に見せたのは切支丹ではなくおそらく宣教師なんだろう。もし宣教師たちがガラパゴス化したキリスト教(基督教)をそのままにしておいてくれてたら、切支丹たちもキチジローみたいに踏み絵をフツーに踏んでたんじゃないですかね?それだったら、助かる命も多かったろうと思うんだけど、どうなんでしょう?しょせん結果論ですが...。
神を信仰することにおいて絵を踏むか踏まないとかは、本質的な行為ではないと思う。絵を踏んだって、心の中で信仰することはできる。敬虔な信者の形式にこだわるのは別に司祭だけでもいいだろうに、彼らはその潔癖さを信者たちにも強いる。結果、人々は「殉教」することになる。
かといって、その信仰のために死を選ぶという敬虔(半ば狂信的)な態度が愚かだとは言えない。人は何かを信じなきゃ生きていけない。盲信でもなんでもいい、無理矢理にでも「生きる意味」を見出さなきゃいけないほど、この世は生きるに値しない場所なのだから。苦しみしかない人生の先にパライソがあるというんなら、信仰に命を賭ける甲斐はあると思う。

さて、キチジローは果たして「弱い」んですかね?苦しみを味わったほど「善き信者」となれるのならば、彼のように死ぬに死ねず、常に罪を抱えながら生きていくという道は、場合によっては拷問の末の殉教よりも辛い人生だろう。
そう考えると殉教だってある種の「逃げ」と見ることもできる。
あえて拷問を選んでいく「殉教者」は、この世で生きていくのは辛いから死を選ぶという自殺の論理とあまり変わらない気がする。
最後まで苦しみながら死を選ぶより、罪を抱えながら生きていくこと...ロドリゴは心の底で、キチジローの生き方に学ぶものがあったからこそ、殉教か棄教かで悩んだのだろうと思いました。


斬首のあのシーン、若干和んだ空気の中で唐突に行われるのが妙にリアルで良かった。