チーズマン

沈黙ーサイレンスーのチーズマンのレビュー・感想・評価

沈黙ーサイレンスー(2015年製作の映画)
4.0
原作は読んだことはないが、この内容を描くなら映画のこの長さは必要だろうと思ったし、その長く暗い映画を一切退屈することなく面白く観れたスコセッシの力量はさすがだと思った。
緊張感がずっとつづく、目が離せない。

まず前提としてキリスト教徒でもなければ何か特定の宗教を信仰しているわけでもなく原作すら読んでない自分にはおそらく全てを理解できた訳じゃない、なのでそんぐらいの感じの人が書いたたわ言ぐらいの感想だと自分でも思う。
ただ登場するのは自分と同じ人間同士のこと、そこはやはり共通するものはあったはず。
まず主人公の司祭ロドリゴに完全な感情移入はやはり出来なくてやや宙に浮いた感じで、強いて言えばどの立場の人物にも少しずつ感情移入しながら観ていた。

この映画のテーマでもある“神の沈黙”で言うなら、この前観た『裁かれるは善人のみ』というロシア映画がたまたま少し共通するような内容だった。
個人的には『沈黙』で描かれる徹底したキリシタンへの弾圧そして迫害の中での“神の沈黙”には不思議と初めから神の不在感はそこまで感じなかったしそれが最後にも繋がるが、それに比べれば『裁かれるは善人のみ』の方はロシアの田舎町での土地をめぐる小さない争いの中での“神の沈黙”、この映画もキリスト教が一つの要素になっているが『沈黙』とは対照的に終始この世界における神の不在感をすごく感じた。

この映画でちゃんと幕府側の事情も一応描かれているのは偉いと同時にだからこそ困ったことでもあるんだけど、それは隠れキリシタンに対して行われる事は本当に残酷でひどいのにこの映画に悪人は出てこない、出てくるのは強い人間と弱い人間。
だからキチジローはこの映画ですごく重要な人物だと思った、神のために死ぬことも出来ず神を捨てることも出来ない、どこにも居場所が無かった彼が一番苦しんでいたんじゃないだろうか。そしてその弱き者の彼を、単に排除するのかそれとも受け入れることができるのかどうか、その変化も面白かった。

「前の司祭様は日本語をほとんど覚えてくれず、教えるばかりで私達を学ぼうとしなかったし、軽蔑していた」というようなセリフが確か何気無い場面にあった。
いや自分は違う、とロドリゴは言ったが結局は彼自身は日本の風土に根付いている宗教的価値観を理解しようとはしなかった、でもそれは無理もない自分信仰する心理が唯一なのだから。
それが描けているということは、スコセッシ監督自身がこの作品が単に一方向からの善悪の話にならないようにちゃんと日本を理解しようとし、細かい描写まで敬意を払って映画を作っているからだと思った。
幕府の役人側もべつに酔狂で好き好んで処刑しているわけではなく、特に島原の乱以降の幕府のスタンスはキリシタンがまだ結構いるのも分かっててただ公に容認することは立場上できないけど目の前で踏み絵さえ踏んでくれれば個人で信仰する分には黙認するぐらいのことを言ってる感じにすら見えた。
つまり幕府側は自分達が絶対正しいとはおそらく思っていない(幕府側の親玉はキリスト教自体は否定してない)からこその妥協案を出していた、だから踏み絵は形式だけで足が少し触れるだけでもいいからと幾度も言うがキリシタン達は殉教の名の下に次々と死んでいく。
この絶対的な信仰の、己が正しいと信じる者が持つ妥協を許さない強さ故の何かある種の暴力性は、これは幕府による直接的な暴力性とも少し違うと思う。
だから、少なくともこの映画においては弾圧による惨劇もこの二つ異なる暴力性が起こした出来事のようにも見えた。
そして今の世界の変化とも通じる部分がある気がしてしょうがない。
それは宗教の問題だけじゃない、少なくともスコセッシ監督の暮らすアメリカで言えばドナルド・トランプが大統領になってしまったことと全くの無関係とは言えないはずだ。
この映画の中で“転ぶ”ということがすごく重要な意味を持つように、今の世界で“転ぶ”ということの意味を少し考えてみてもいいんじゃないかと思うあたり、今この観る価値がちゃんとある映画だと感じた。

役者陣の演技は皆素晴らしかった、特に幕府側の大目付である井上サマを演じたイッセー尾形が嫌な奴ではあるが抜群の存在感だった。

農民の人達が着ている物にもちゃんと暮らしの厳しさが染み付いたような使用感があって、手の爪の隙間まで真っ黒だったのは感心した。

ちょい役まで豪華な日本人キャストが多く、そしてリーアム・ニーソン、アンドリュー・ガーフィールド、アダム・ドライバーとの共演、素晴らしく出来の良いお祭り映画のような楽しみ方もできた。
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