エムネ

沈黙ーサイレンスーのエムネのネタバレレビュー・内容・結末

沈黙ーサイレンスー(2015年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

最高の映画でした。信者ではないですがキリスト教を学んでいる者として、日本人として、一人の人間として見てよかったと思える映画。江戸時代のキリスト教弾圧を海外の人が日本人の小説を原作に作成されたという異色の映画。それゆえか日本と海外のキリスト教とのどちらの視点も興味深い。役者の慟哭や葛藤生の激しい感情も伝わってきた
神を信じるとはどういうことなのか。作中には神を裏切ったとされる人が何人も出てくる。キチジローはその代表格といえる。しかし彼はそれでも神を信じたいといい何度も告解しようとする。彼はキリシタンではないのだろうか?主人公のロドリゴ司祭やフェレイラ司祭も踏み絵をし棄教した。しかし彼らは自らのためでなく信徒だった今や何の罪もない人を救うために棄教藤丸立香させられたといえる。ロドリゴ司祭は神の声を聞きその後も神を信じていたともとれる描写がある。フェレイラ司祭も神を否定することを行いながら主と呼ぶ。彼らは本当に信じることをやめていたのだろうか?そんなことをひたすら考えさせられた。
日本のキリシタン達が危険である司祭の来訪を喜ぶ様子をオタクが公式からの供給を喜ぶ様子と例えをしていたが言い得て妙である。まず来たこと自体が理屈なく嬉しいことでありそして自分たちが信じてきたものが正しい教えであると認められたのが救いだった。彼らは苦しい生活を送っているが死ねば楽園に行けると信じている。だから自分たちの信じてきたものが正しいかを問い、棄教をなかなかしないのだと思う。彼らの多くは死を恐れない。勇気ある信仰だと言われていた。しかしそんな彼らも拷問に合い棄教した、それは勇気のない行動ともいえる。そしてそれを見て教えを捨てた司祭達も。ただそれを勇気が無いと片付けていいものなのか、全ての人間にその弱さがあるのではないかと思う。そして死を恐れていたキチジローは最後に処刑されたがあの時なぜかキリスト教のものを持ち己の弁明を必死にしなかった。最後の告解、棄教した司祭との告解で彼は勇気ある者に変われたのだろうか。キリシタンは死後の楽園を信じているから死ぬことができるとしたらキチジローは最後に楽園を神を心の底から信じられたのだろうか。だとしたらなぜだろう。自分の中で問い続けたい。
この作品で弾圧側は冷酷ではあれど目的を持ち行動している姿が見られた。奉行や通訳などはキリスト教をある程度理解してる節もあった。その立場から日本ではキリスト教は無益だ、栄えないと断じていた。日本ではキリスト教の正しい教えは根付かない、と。確かにキリスト教が歪んでいる件もあり現代でも日本に一神教は向かないなどと言われることも多い。しかしキリスト教は何度か形を変え世界的な宗教となっているのである。また今の日本でも教えを直接司祭から学び本来の意味に近い状態で信じているものも多いとミッション系の学校に所属しているものとして反論したくもなる。
最後にこの作品の題でもある沈黙。作中で何度も神はなぜ試練を与えるのか何も答えないのかと問われている。そしてロドリゴ司祭のもとにイエスは2回現れたとも見える描写がある。そして最後にその声を聞いた。この意味をもっと考えていきたい。
こんな感じでダラダラと感想を垂れ流すほど考えさせられる映画だった。原作と2度目の視聴を行いたいほどである。
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