沈黙ーサイレンスー(2015年製作の映画)

Silence

上映日:2017年01月21日

製作国:
  • アメリカ
  • / 上映時間:159分
    監督
    マーティン・スコセッシ
    脚本
    ジェイ・コックス
    原作
    遠藤周作
    キャスト
    アンドリュー・ガーフィールド
    リーアム・ニーソン
    アダム・ドライバー
    窪塚洋介
    浅野忠信
    塚本晋也
    イッセー尾形
    笈田ヨシ
    小松菜奈
    加瀬亮
    遠藤かおる
    井川哲也
    PANTA
    松永拓野
    播田美保
    片桐はいり
    山田将之
    美知枝
    伊佐山ひろ子
    三島ゆたか
    竹嶋康成
    石坂友里
    佐藤玲
    累央
    洞口依子
    藤原季節
    江藤漢斉
    菅田俊
    寺井文孝
    大島葉子
    西岡秀記
    青木崇高
    SABU
    渡辺哲
    AKIRA
    田島俊弥
    北岡龍貴
    中村嘉葎雄
    高山善廣
    斎藤歩
    黒沢あすか
    あらすじ
    17世紀、江戸初期。幕府による激しいキリシタン弾圧下の長崎。日本で捕えられ棄教したとされる高名な宣教師フェレイラを追い、弟子のロドリゴとガルペは日本人キチジローの手引きでマカオから長崎へと潜入する。 日本にたどりついた彼らは想像を絶する光景に驚愕しつつも、その中で弾圧を逃れた“隠れキリシタン”と呼ばれる日本人らと出会う。それも束の間、幕府の取締りは厳しさを増し、キチジローの裏切りにより遂にロドリゴらも囚われの身に。頑ななロドリゴに対し、長崎奉行の井上筑後守は「お前のせいでキリシタンどもが苦しむのだ」と棄教を迫る。次々と犠牲になる人々。守るべきは大いなる信念か、目の前の弱々しい命か。心に迷いが生じた事でわかった、強いと疑わなかった自分自身の弱さ。追い詰められた彼の決断とは―。

    「沈黙ーサイレンスー」に投稿された感想・評価

    観ていてつらい3時間。悪くはないけど、信仰を持たない私は主人公に感情移入しづらい。
    キチジロー、彼の存在が物語の中でとてもいい役割を果たしていると思う。唯一のコミカルなキャラに救われる。
    「私は沈黙していたのではない。お前と一緒に苦しんでいた…」
    終盤ついに沈黙を破った神。
    え?これが結論??
    ただただあっけなさを感じるのは私だけだろうか。
     キリスト教が弾圧されてる日本で行方不明になった師匠を追いかけて日本にやってきた神父さんの地獄めぐりの話。

     外国のスタッフさんが異文化を描くとたいてい失敗するのが当たり前だと思っていましたが、普通に本格時代劇として違和感なく見ることができました。それだけでも凄いと思います。そして、冒頭からキリスト教徒に対する拷問が描かれて見るのが辛い160分でした。

     当時の人々がいかに辛い日常を送っていたのかを主人公の目を通して体験体感させて、何でそこまでして人間を拷問できるのだろう。やられる方は棄教せずに拷問に耐えることができるのだろうか。またすぐに裏切って、また罪を告白して苦悩してという様々な人間がでできて、本気で人間って何なんだろう。何でこんなことしているのだろうと辛い映画で退屈せずに見ることができました。

     主人公がお奉行様や師匠から日本にキリスト教が根付かない理由を語られますが、「おてんとうさまが見ている」となんとなく思いながら見ている、特に宗教を信奉していない日本人のボクからしたら「そうだよなー」と彼らの方が正論に感じました。

     ただハリウッド映画だからか仕方ないので突っ込むのは野暮だとは思いますが、登場人物全員が英語しゃべりだしたりしてしかも劇中ではポルトガル語として描かれているらしいので、そこらへんで入り込めない部分もありました。お百姓さんから門番からみんな英語ぺらぺらでした。それに主人公の創造か妄想かキリストらしき声が語りかけてきて、全然沈黙ではなかったです。それに主人公が最後に決断する理由も人を救うため。という理由が安直すぎるのではないかと思いました。しかも本当は信仰を捨てていないみたいなエピローグもキリスト教圏から見た描かれ方だから仕方ないのかと感じる描き方でした。人のために犠牲として棄教するのかしないのかではなく、本当に心が砕けてしまうほど追い詰められた人間の苦悩を見てみたかったです。

     にしても日本を舞台にした映画なのに日本で撮影できないのが悲しい作品でもありました。
     
    開始早々から最後まで何度もボロボロ泣いていたんだけど、その理由を分解してみたらこうなった。

    ・致し方ない状況で神を信じ続ける長崎の人たちが、神父の登場で心は救われるが、命は救われないと言う理不尽。

    ・いかなる死に至るような拷問をうけても神を信じ続ける人びとの純粋な信仰心。

    ・信者たちと神父たちの自己犠牲。
    宗教と言うものに無頓着だし時代背景とか貧困だとか憶測は出来ても理解は出来ないので何があそこまでの信心に至るのかをずっと答えの出ない事を考えながら観て、観終えてからもしばらくは宗教ってものから神とかその辺の事をずっと考えさせられた、そんな映画だったなぁ

    熱湯の拷問のシーンはあれはだんだん肌が赤くなってったのはあれはマジで熱湯かけてたって事なんかな?
    波のシーンだったりとかあそこまで出来たのはやっぱり製作がアメリカだからってのがデカかったのかもなぁ…
    9割以上が日本が舞台だったから邦画感覚になっちゃうけども…ってゆーかここまでしっかり日本を描いてくれてるってのが凄いんだわ!ラスト・サムライなんかどこの国の話?って感じだったもんね


    窪塚のキチジローは素晴らし過ぎる…生にしがみついてるけど信仰も捨て切れない感じが何か人間臭く感じた
    イッセー尾形のいやらしさはもちろんだけど浅野忠信のあの味方スタンスで棄教を迫る感じは何だかヤクザ的な怖さがあるような感じがした

    「沈黙」って言うタイトルが色んな意味を持ってて色んなところにかかってたと思うん
    祈りや問い掛けからそれに対しての答えの正誤まで全ては自分次第って事…?…やっぱり答えは出ないなこれは…
    【自分の無知を知る】

    来たね~。個人的には今年No1の最有力候補。
    江戸時代の長崎の風景を力強く描き、またそれに負けないくらいの俳優陣の素晴らしい演技。遠藤周作の名作「沈黙」が50年のときを経て見事に映像化されました。
    普段から原作等は読まないまま映画を観るタイプですが、今回ほどそれが自分にとって大きな意味を持ったと感じたことはなかったです。

    舞台は江戸時代。キリスト教弾圧が激しさを増す長崎でフェレイラという神父が棄教したという知らせが遠く離れたローマの教会に届く。その知らせを聞いた二人の司祭、ロドリゴとガルペはその知らせが信じられない。何故ならその二人を教えた人物こそがフェレイラだからである。
    真相を確かめるべく二人も異郷の地日本へと向かいます。当時は今とは違い航路も確立されていない状況で、まして日本への入国は難しい状況でもあったため、中継地点のマカオに降り立ち日本への密航方法を探ります。そしてこのマカオで後に大きく物語を動かすこととなる「キチジロー」と出会います。
    片言の英語で何とか要件は伝えたものの、人としてどこか不安定な雰囲気が払拭できないキチジローを信じて付いて行っても大丈夫なのだろうか・・・。不安が募ります。
    結果的にやっとの思いで日本に辿り着いた2人でしたが、彼らが目にした光景は、それまで自由意志で信仰が許されていた欧米の雰囲気とは180度違うものでした。人々は貧困に喘ぎ、蔑まれながら生きていたのです。さらにキリスト教を信仰する信者(信徒)は切支丹と呼ばれ、異教を信じる危険な存在として厳しい弾圧を受けていました。領主に隠れて信仰を貫く「隠れ切支丹」の姿は、それまで彼らが接してきた信者の姿とは全く異なるものだったのです。
    物語の舞台ともなっている長崎県では何故ここまでキリスト教信仰が根強かったのか?それは1549年のフランシスコザビエルらイエズス会が長崎県生月島でいち早く布教活動を始めたことに由来するとも言われています。江戸時代に入って幕府はキリスト教に対して「禁教令」を発布し、各地域にいたキリシタンたちは直ぐに途絶えていきましたが、長崎県に根付いていたキリスト教信仰はすでに人々の生活にまで浸透し地域によっては何代も受け継がれていたものも多かったため、一般的なキリスト教とは違う独自の様式や形式での信仰を守り続けたとされています。その中で隠れて信仰するための道具や隠語などを伝承して入ったことから「隠れキリシタン(潜伏キリシタン)」と呼ばれました。
    実はキリスト教に対する潜伏信仰は明治時代まで続き、国際社会の猛反発を受けた明治政府が折れる形で「信仰の自由」が保障され、それと同時に隠れキリシタンという定義は存在しなくなったと言われています(実際はまだその独自様式を守って信仰を続けている人々がいるという話もありますが・・・)。
    そのような状況の日本での布教活動、フェレイラ神父捜索活動は困難を極めます。馴染みのない日本語に苦労したり、キリスト教に対する独自の解釈にギャップを感じたり・・・。
    当初ロドリゴとガルペは一心同体で活動を行ないます。しかし次第にお互いの心境に微妙なズレが生じ始めます。ここら辺はきっと色々な解釈で分かれるポイントだと思います。そんな中で僕個人の見解としては「スコセッシ監督はガルペを通してロドリゴの内面を映し出したかったのではないか」というものです(反面教師といってもいい)。確かに同じ宗教を信仰し、フェレイラ神父という同じ師を持つ二人であれば、別人格であるという事は織り込み済みとしても思想や価値観(信仰に対しての)は同じか同等であったと考えられますが、実は序盤から二人は少しずつずれ始めます。
    例えば炭焼き小屋での口論や天国(パレイソ)はあるかと問われたときの回答など、信仰に対する解釈の中に自分の感性をチラつかせるのです。
    これはこの二人が極限状態に追い込まれていく過程の描写として、時間的にはあまり重きを置かれてはいませんでしたがその後の展開的には重要なファクターとして位置づけることが出来る演出だと思います。
    そんな中、彼らが潜伏していた村の長老(じいさま)と村のまとめ役であったモキチが井上筑後守に潜伏キリシタンだと嫌疑をかけられます。
    彼らはキリストの絵を踏むように強要されますが踏むことが出来ません。しかし、キチジローだけは絵を踏んでその場の難を逃れるのです。
    かくしてじいさま、モキチら三人が「見せしめ」として海で処刑されます。
    その様子を見ていたロドリゴ達の胸には「これが殉教なのか?それまで私が思っていた殉教とは安らぎの中に光に満ちた天使たちが迎えに来て天国へと旅立つことだと思っていた。それがどういうことだ。この国にはそんな安らぎは微塵もない。これを殉教として受け入れるべきなのか?」という思いが去来します。

    そして唯一絵を踏んだキチジローの事も考えます。彼は隣の集落に暮す若者でしたが、彼を含めた家族全員が「潜伏キリシタン」でした。
    ある時彼の一族は全員捕らえられ踏み絵を強要されました。そして今回と同じように唯一絵を踏んだのがキチジローでした。
    「私はじいさまやモキチのようには強くなれません。彼らのように強い信仰心を持って殉教すればパレイソ(天国)にも行けるのでしょうが、私のように弱い人間はどうしたらよいのでしょうか?」
    実はこの言葉こそがこの映画の根幹を成す大きなテーマでもあります。

    「神は私たちに何をしてくださるのか?」

    強きものも弱きものも救いを求めて神に対して祈りを捧げます。しかしいくら祈ったところで神からの回答はありません。
    そこに仏教でいう「悟り」のような解釈があるのかな?とも考えましたが、キリスト教はあくまでも教典(聖書)に沿って行動し、そして祈りなさいという教えに行き着きます。子供の頃「シンジルモノハスクワレル」って片言の振りして遊んでいましたが、実は真相は本当にそこであって、信仰や祈りの先にあるのは「救済」だったのです。かといって物質的な救済などがあるはずもなく、その救済の意味を知るために人々は宗教を学びます。しかしいくら学んでも「神の救済」は訪れません。こんなに信心深くあなたを信仰しているのに何故あなたは私たちを救ってくれないのか・・・それがこの作品でいうところの「沈黙」なのです。

    一緒にいることで密告などのリスクも高まるため、ロドリゴとガルペは行動を別にすることになります。この辺からロドリゴの苦悩は加速度的に深いものになって行きます。徐々に厳しさを増す村への弾圧にロドリゴは村を離れ隣の村へ行く決心をします。そしてその道中キチジローと再開しますが、ロドリゴは彼を信じることが出来ません。殉教の道を選ばずに自分の命を選んだ、いわば「弱くて卑しいもの」と蔑んで見ていました。しかし彼はキリストを裏切ったわけではない。私は弱い人間なのだとロドリゴに告解を求めます。気乗りしないながらも告解を施すロドリゴ。しかしロドリゴの中にはキチジローをどうしても受け入れらない悶々とした思いが立ち込めていたのです。
    案の定、ロドリゴはその道中に井上筑後守の手下によって捕らえられます。キチジローが僅かなお金と引き換えに密告していたのです。
    「パードレ!許してくんさい!パードレ!パードレ」
    地面に額を擦り付けて泣き叫ぶキチジローに対して、役人は蔑むような目で僅かな銅銭を放り投げるのでした。

    ここまでの関係性を見たときに勘がよい人はもう気が付いていると思いますが、遠藤はキチジローに「ユダ」を重ねていました。
    キリストを僅かなお金の為に裏切り、その結果キリストが十字架に架けられてしまうきっかけを作った張本人です。彼は聖書の中のみならず後世に「裏切り者」の代名詞としてその名を残すこととなりました。
    ではキチジローがユダならばロドリゴはキリストという位置づけだったのでしょうか?確かにロドリゴの苦悩はキリストのそれと似た経路を辿ります。しかし、終盤で決定的に違うという事がわかりますので、それについては後ほど。

    囚われの身となったロドリゴは井上筑後守や看守とのやりとりの中で、日本におけるキリスト教とはどういうものかということを説かれます。
    しかし頑として棄教を拒むロドリゴに対して井上はある人物に引き合わせます。
    「沢野忠庵」
    しかし彼の本当の名前はフェレイラ。そうロドリゴとガルペの師であるフェレイラ神父です。彼はキリスト教を棄教した後、日本名を与えられ日本人の妻も娶って僧として日本で暮らしていました。
    フェレイラはロドリゴに説きます
    「日本は沼のような国だ。全てのものを腐らせる」
    これは単に理解できないものへの卑下ではなく、当時の日本の状況を的確に表している一言でもあります。
    彼は日本ではキリスト教が根付かないことを悟り棄教したと言っていましたが、実際のところは最後までわかりませんでした。
    フェレイラに会って絶望にも似た状況に置かれたロドリゴ。もはや神に祈るしか救いの道はない。しかし自分が棄教を拒み続けることで、自分の周りにいる沢山の日本人が厳しい拷問の末命を落としていく毎日が続く。
    自分さえ絵を踏めば、「転ぶ」と言えばこの苦しみからも解放されるかもしれない。しかしそれは今まで命よりも大切にしてきた自分のアイデンティティを無にするという行為。全ての信者たちを裏切ることにもなる。いったいどうしたらよいのか・・・なぜ神は黙っているのか。

    そこへフェレイラ神父が現れこう言います。
    「お前が恐れているのは絵を踏むことではない。お前は自分自身を守りたいだけなのだ。絵を踏むことで協会から批難されることが怖いのだ。だから絵が踏めないのだ。かつての私がそうだったように・・・。お前がこうしている時にも村人達は拷問を受け続けている。こうしている間ずっと・・・」

    何かを決心したロドリゴはゆっくりと絵に向かって歩み寄ります。そしてそこには今まで命よりも大切と思ってきたモノが無造作に地面に置かれています。
    彼はゆっくりとその絵に足を置き、そしてその場に泣き崩れました。

    その時、ロドリゴの心の中に「あの人」が現れました。

    「何故あなたは黙っておられたのですか?」
    (私は黙っていたのではない。私は常にお前に寄り添っていた。お前の痛みを分かつために)
    「あなたはかつてユダに『去れ。そして為すべきことをするがよい』と言われた。だがそれではユダは救われない。あなたはユダを見捨てたのですか?」
    (私はそうは言わなかった。ユダは今のお前のように傷ついていた。私はお前に「踏むがよい」と言った。そしてユダにも同じように「為すがよい」といったのだ。)

    キリストは「汝ら」が犯した罪も負った痛みも全て受け入れるためにずっと隣に寄り添っていたのです。
    ≪苦しみはお前一人が背負うものではない。私もともに苦しもう。≫
    それが「救済」なのです。

    その後ロドリゴはキリスト教を棄教し、二度と司祭を名乗ることはありませんでした。しかしそれはキリスト教から離れたという事を意味しますが「キリスト」の真意への気付きは心の中の奥深くにしまいこんでいることの裏返しでもありました。
    ロドリゴはキリストと同じ道を歩んだのではなく、キリストの「沈黙」の中に「気付き」を見た日本最後の宣教師だったのです。

    とてもこのスペースでは語りきれないくらい多くの感情が入り乱れた作品でした。
    以前岡田斗司夫さんが「人間が究極に感動すると呆然としてしまう」という趣旨のことを言っていましたが、ちょっとそれに似た感覚でもあります。泣けばそれも一つの感想なのかもしれませんが、一度泣いてしまうと「この映画は泣ける映画だ」と自分にバイアスがかかってしまい、そこでその他の感情を遮断してしまうことがあります。本当に心から色んな感情が湧き出てくる映画の場合、「泣く」だけでは終わらないんですよね。だから意味がわかる気がするんです、この言葉。
    更に言えばここに今まで書いたことはまだ感想の10分の1程度ですが、それでも宗教(特にキリスト教)に対する無知も多分に含まれていると思います。決してそれらを中傷する意図はありませんし、全ては自分の教養のなさが原因です。
    ただ冒頭に書いた「予備知識や先入観を持たずに純粋な気持ちで作品を観る」ことの意味について、今回ほどよかったと思ったことはなかったと思います。
    無知であるからこそ知への欲求が高まり、それが自分の言葉で自分の「血」となり「知」となるのだと思います。
    そういった意味でも恒久的なテーマでもある「信仰と人間」について考えるきっかけを与えてくれたこの作品に感謝したいと思います。
    見てられないくらいの拷問があったけど、これも本当にあった実話。宣教師は頑張ってたけど、悲しいかな日本人が信仰してたキリスト教は違った内容だった。。
    最初から最後までズーーンって重たかった。

    日本人俳優含めて、演技下手で浮いてる人が1人もいなかった。
    特にイッセー尾形の井上様がいい人なのか悪い人なのかわからず、すごい引き込まれた。
    スコセッシ監督による遠藤周作『沈黙』
    まず最初に自分は原作を読んでない。

    その上で、感想はやはり「スコセッシさんは敬虔なカトリックなんですね」
    宗教とは難しいもので、信仰すればするほど、異教無教は暗愚に映る(一神教徒には特に)

    ひたすらキリシタンへの迫害を描く前半部では「お奉行」はただ無慈悲だ。
    “通辞”の浅野忠信がでてきてから、少し変わる。体制側の考え方も明かされる。この国は暗闇ではなく、仏教と古来神道がありキリスト教は不要だと。
    日本の政府もバカじゃない。

    歴史上、狂信のあまり国(と民)を丸ごと外国の教会に寄進しちゃったお殿様もいたわけで、政府としては異教は認めがたいのも、わかる。
    宗教の評価はすべて歴史が決めるわけで、どんな宗教も、最初は胡散臭い新興宗教だしね。

    しかも、「死んで花実が咲くものか」が通用せず、宗教の世界ではパライソや極楽浄土やイスラームではなんというのかな、へいける。殉教者は新たな聖人として祀られ、より結束を生む。
    中世の政府からしたらさぞ怖いだろうな。
    ロドリゴと通辞の会話には、その根本的見解の相違が顕れる。

    そういえば、少し時代を遡れば、 織田信長が一向宗徒と戦い比叡山を焼き討ちしたのも、似た発想かと。

    話がそれた

    さて、終盤に近づくとキーパーソン フェレイラ師がでてくる。彼は「転んだ」宣教師でロドリゴに棄教を奨める。結果、ロドリゴはキリスト教を棄てて妻を持ち(イエズス会は禁妻帯)、日本政府の雇われとして生きる。
    ひたすら黙して。確認のための踏み絵を黙々とこなして。

    この段階では、観客は、ロドリゴが棄教したのか否か、わからない。
    が、最後、亡くなって火葬される際に手の中のロザリオを映すことで、ロドリゴが踏み絵をこなしながらも、心の中で信教を貫いたと答えをみせる。
    (観客はきっと少しほっとする)


    沈黙、とはつまり、イエスが「沼」(キリスト教からすると日本は沼 於作中)でもがく人々に何も言わない、ということ。

    それでも内なる信仰を貫いたロドリゴやキチジロー、棄教したもの、ロドリゴのツレや踏み絵をできず磔や首斬りになったもの、、、それぞれの宗教観を残酷にみせる映画でした。

    従って、宗教に身を置かない私には結局最後にふーんとなってしまう作品。
    絶対に評価がわかれる作品。

    でも、こんなに長いレビューを書きたくなるくらい引き込まれたし、最後まで目を離させないよくできた作品。
    そう思う。


    たぶん、キチジロー役窪塚の小物っぷり、通辞役浅野の聡明さ、奉行役イッセー尾方の狡猾さ、日本人俳優の深い演技ゆえかな。
    加瀬亮の首ちょんぱはつらかった・・・
    高校、大学を卒業して大手企業に就職する。

    中学生くらいからずっと私はこうやって生活するんだろうなと思っていた。というか大多数の人がこのようにして就職し、家庭を築き、生活しているのだろう。だから私もそうする。

    それに漏れてしまったら人生の負け組だと思っていた。そして私は大学時代みんなと同じように就活をして大手に就職をした。
    しかし仕事はつらいだけだった。でもみんなつらいんだから、みんなが通ってきた道だからと自分を励ましてきた。だが精神的にどんどん追い込まれていき、とうとう仕事を辞めてしまった。

    つまり自分が当然のこととして思い描いていた人生、価値観、信条を棄ててしまったのだ。みんなが一生懸命頑張り仕事をしているのに、私はそれができなかった。私は弱い存在だ。
    そんな弱い私はロドリゴや特にキチジローの気持ちが何となく理解できた。もちろん直接的な拷問は受けていない。私の経験したことなんかと比べるのは失礼かもしれない。
    しかし、彼らは葛藤した。負けないように、周りの人や死んでいった人達を思いながら
    あぁ私もそうだった…
    棄教したことにより周りから蔑まれ、罵倒されていた。
    あぁ私もそうだ、身内から友人から…


    映画を見終わった後、原作を読んで更に理解が深まった。

    ラストでロドリゴは神の声を聞く。これは、棄教したことにより新たな価値観を生み出す。出ました!「破壊と再生」ですね!自分が信じていたことを棄てることによって新しく生まれ変わる。


    「強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」

    この言葉は私のそばで今も鳴り響いている。
    うーん、難しかったな。
    キリスト教弾圧下の江戸時代、長崎で「転んだ」司祭フェレイラと、彼を探して日本へやって来た司祭ロドリゴが「転ぶ」までの話。原作は未読。
    長崎でのキリスト教信者に対する拷問が本当にむごい。そんなにむごい仕打ちを受けるのに、なぜ信者たちは棄教しないのだろう。
    自分は宗教に対する思い入れがないので、正直信者たちがひたすらに耐え祈り続ける様や、頑なに踏絵を踏まないことは理解できなかった。
    なんども踏絵を踏み、その度にロドリゴに告解を求めるキチジロー。ロドリゴはだんだん、キチジローは見る価値もない男だと思うようになるが、ああいう、宗教面で芯のはっきりしない姿こそ日本人らしいんじゃないかなあと思った。
    日本らしさといえば、(恐らく)キリスト教の本質を理解せず偶像崇拝をしたがることや、フェレイラの言った太陽信仰の話(神が毎日生き返るこの国日本ではキリスト教は理解されないという、このエピソード自体は聞き間違いから生じたものかもしれないけど八百万の神を信じる日本人にとってはまんざら間違ってもいない)はまさしくその通りだろうなあと思えた。
    あと、村の危機に際して他所者のキチジローを村には関係ないから大丈夫云々言いくるめて生贄(人質)にしてしまおうとする寄り合いの流れも、嫌な役割や責任を押し付けあう日本的なシーンだなあと思った。
    キリスト教の根を摘むとの幕府の言い分で強制的に棄教させられたロドリゴには同情する。彼の信念は打ち砕かれ、生きる上での指針がなくなってしまうような苦しみだったことだろう。けれど棺の中に(妻が持たせたであろう)十字架があったということは、表向きは棄教したが心はイエスを信じ続けるという賢い選択ができるようになっていたのだろうか?
    偉大な信念と目の前の人の命の板挟みにあい、ロドリゴは目の前の人命を取る。俗世に生きる自分は、その選択が正しいと思った。俺は腹が減ったら飯を食いたいと思うし、命が危ないなら助かりたいと思う。宗教とか信念って、そういう原始的な欲が満たされた上でのものなんじゃない?
    作中、多くの人々が理不尽な責め苦に遭うが神は沈黙を続ける。 「私もともに苦しんでいた」という神の声ナレーションが入るが、そんなの信者側の永遠の片思い・思い込みなんじゃないのかなあ。沈黙の果てにロドリゴは救いを見出せたのかなあ。
    何を信じるかは人それぞれだけど、命がけで信じるってなかなか理解しがたいな。難しいねえ。
    とりあえずキチジローダメ人間やったなぁ 笑
    でもあれが本来の人間の姿なのかもね〜
    ほんまは、何か形あるものにすがって行かないと生きていけない弱いものなんだろうね
    人間って愚かで欲深い生き物だね・・・。
    って湯婆婆も言ってた☺️

    ちょっとキリシタン勉強不足だから難しかってんなぁ
    でも3時間弱見てたって気がしないくらい見入ってたっけ(*´ω`)ゞ

    この国は沼地 どんな苗でも沼地に植えても根は腐る だったかな?
    日本の信者たちが思ってる神とパードレ達が思ってる神が違うから布教できない。
    沼地を連想させる描写チラホラあったのはその為なんだね
    日本の信者からしたら、
    こうして死ぬば神の国にいける と思っていてそうではなくて、
    どのような境遇にあっても主を信じ仕えるが本来の殉教者の考え

    そういやあの背の高い方のパードレはキリシタン感滲み出てたなぁ(˙👄˙)
    あと井上のおじぃちゃん!!
    演技って感じしやんしモキチ?の張り付け身体はりよるっ

    自分の外側に恩寵や奇跡などの形で神にすると、神は沈黙する
    神が常に自ら共にあると体感し、実感こそが恩寵であり奇跡になる
    神に冒涜した行為をしたとしても自分の中に神が存在しているから
    最後には声が聞こえ踏み絵をし転ぶことができたのかな?笑

    沈黙を意識してるからなのか映画自体も静かだった〜
    それとその後ただただパードレが言いたい病にかかったの至極当然っす(*´ω`)ゞ
    >|