しゅう

沈黙ーサイレンスーのしゅうのネタバレレビュー・内容・結末

沈黙ーサイレンスー(2015年製作の映画)
3.7

このレビューはネタバレを含みます

 まず思い出したのは大学時代の恩師のことだった。遠い国で生まれた倫理学という学問の種を沼地に植え続ける人。その姿が司祭たちと重なった。わたしもその種を受け取ったはずなんだけれど、心は常に迷っている。彼や先達の哲学徒たちの言葉は、わたしが受け取った時点で別の何かに変容してしまっているのではないか。ちょうど、日本人信徒がキリスト教を蜘蛛の巣に引っ掛かった蝶の死骸にしてしまったように。わたしはわたしの望む形に何もかもを作り変えてしまったんじゃないだろうか。だとすれば、普遍性など千年の彼方だ。北極星を見ながら足元が沈んでいくような無力感に捕らわれる。だが、そこで恩師が言っていたことを思い出す。哲学するとは答えを見つけることではなく答えの見つからない不安定で不快な状態に立ち続けることなのだ、と。迷う限り間違いではないのだ、と。だとすれば、わたしの中のロドリゴやフェレイラやキチジローは救われる。
 救いといえば、映画の最後のシーンはスコセッシ監督による大いなる救いだと思った。あの十字架はトモギの変容した信仰の象徴で、ロドリゴは日本の切支丹の信仰に生涯寄り添っていたのだと分かるシーン。そして、あの十字架は正統から外れたロドリゴ自身の象徴でもある。宗教と人間との関係は究極のところ、個人がどうあるかであってほしい。ロドリゴは正統の司祭としては失格したが、ひとりの宗教者としては正しく行ったのだと思う。
 原作を読んで一番心に残った、キチジローが吐瀉物の中でサンタ・マリアを唱えるシーンがなかったのは残念だった(そのシーンが一番キチジローの信仰のあり方を表していると思った)けれども、スコセッシ流の救いのある映画として作られていてとても良かった。何かに迷うたび見返したい映画だった。
しゅう

しゅう