幻の作品と言われていた伊藤智生監督の初長編。繊細で丁寧なつくりだった。評価されたが、公開できず、これ1本撮った後にAV監督の道へ。
心のリズムを壊してしまった少女と大都会の海で溺れそうになっていたビルの窓拭きの青年が出会い、二人が再生していくようすをリリカルに描いている。
光の使い方、音の使い方が素晴らしかった。
両親の離婚と愛鳥の死、初潮を迎えた少女かがりは母の声を聞きたくなくて音叉を鳴らして心を守っていた。
二人がビルの隙間から互いに干渉しあい共鳴し同期したことで、少女かがりの見る光の歪みが減っていく。
「死んだら生きている間に聞いた音はどこにいくの」
死に漠然と惹かれていくかがり。
かがりの父は芽の出ない作曲家。父の残した音叉とメトロノーム。かがりの心は調律されたがっていた。
「波による再生」がテーマで
自分を守る音の波から
本物の海の波を感じ
光の波へ向かっていく。
会話の代わりに音が使われたり、生活音、環境音、様々な音を感じられた。
二人の声は後入れに聞こえるほどはっきりとし、青年は声優のような良い声で、かがりはハスキーで少年のよう。
以下、内容に触れています。
後半は二人のロードムービーで、青年の実家、青森の下北半島の佐井村とその海岸に舞台が移る。霊界(恐山)への入り口と言われている白く美しい海岸。
少女が初めて笑顔になるシーンが良かった。青年の母、脳梗塞で片マヒの父、温もりのある食卓。母に苦労をかけてきた父を青年は赦していく。
都会の繁栄と寂れていく地方、両方の廃屋が映されていた。1985年、バブルの始まり頃。
老若男女よく裸になります。かがりの母の木内みどりも、少女かがりも、青年の母佐々木すみ江も。
死を葬ることで再生するのは、辻仁成の「千年旅人」の舟と同じ。あちらは奥能登だった。海の波に死者の声を聴くのは日本の文化なのだろう。
「どんとはれ」