ナンセンスな世界からサイケなアニメの世界へという仕掛け方は、MGMTがグラミーを獲った07年アルバムのKidsという楽曲のMVにおいても既出だけど、この映画は同じ構成でも違ったテーマをより慎重に、かつ真面目に仕上げたとても丁寧な作品。
MGMTはその後リリース群をサイケデリックという文化についてかなり真摯な作品に仕上げたことで、自らが一端となってしまったニューレイヴやダンスロックのようなステレオタイプなシーン形成に対して、そしてサイケ文化に魅せられた人間の誇りについて一定の回答したと言える。
同じようにこの映画をサイケデリックの文脈に基づきムービードラッグとして考えると、あまりにつくりが慎重すぎるのと、氏の新作が以降出ていないのもあって、「やばいもんを見せられた!!」というよりは「ドラッグについての論文発表に立ち会った」というような、その勤勉さが裏返った感想になってしまう。
しかしそこに押されて目が滑ってこの映画の凄味を見落としてしまうのはもったいないことだ。
作中には現在の映画界に対する辛辣な批評と、人と人の争いという大惨禍への眼差しについて沢山のメッセージが詰め込まれている。
俳優の人格を俳優自身から奪い取り、消費の限りを尽くし、そして俳優自身にその浅はかな偶像を押し付ける。偶像を守るために俳優たちは時に無理な整形やリフトアップを繰り返し、もはや表情も作れなくなってゆく。
本来沢山の可能性を与えられたはずのテクノロジーは、そういった搾取を隠蔽する為にも使われ、ネガティヴな意味でもはや当人を必要としないところまで来た。
そうして出来上がった作品の中にいる役者の人生はどこにあるのだろうか。そしてこの構図は、まさしく争いによって上層部にコマのように扱われる兵士と同義ではないのか。であるとしたら彼らの命の主権はどこにあるのか。残された「人」たちはどこに居るのか、どこへ行くのか。
しかしそれもまた”時運の赴くところ”なのであり、我々の営みなのである。そういった無力の痛感を禁じ得ない中でどう生きて行くべきなのか、強く考えさせられる作品として讃えられるべきだ。