そーた

ヘイトフル・エイトのそーたのレビュー・感想・評価

ヘイトフル・エイト(2015年製作の映画)
3.9
タランティーノの嘘

真実は事実を殺し、
事実は虚構に殺される。

事実も真実も痛めつける、
映画というあからさまな嘘。

嘘を極めつくした、
センセーショナルな自己賛美。

鬼才クエンティン・タランティーノが自身の真髄を見せつける、8番目の問題作。

吹きすさぶ吹雪のワイオミング、
山小屋に残されたくせ者が8人、
騙し合いという狂騒の果てに、
最後に笑うのはいったい、、、

冒頭、サスペンスフルなエンニオ・モリコーネのスコアをバックに、
6頭の馬にひかれ、馬車が雪の中を走り去る、、、

タランティーノの美的センスが、
映像も音楽も、カメラワークも、そして活字のフォントすらも周到に操って、
もはや痺れるとしか言いようがない、
そんなオープニングシーン。

カッコ良すぎるよ、、、

そして、
その馬車を中心に次々と役者が揃っていくという展開。

もう、のっけからニヤリ、
大好きだこの映画、となる。

そして、間髪入れずに、
サミュエルがジェニファーをぶん殴る。

あのシーン、
脳裏に焼き付く役者の表情。

役者の表情って、もはや言語なんだ。
心からそう思った。

中盤になり舞台となる小屋にたどり着く。

出揃う役者達。
躍動する演技の応酬。

あぁ、これは名作に違いない、、、

そう思ったが、つかの間。
そんな生易しい映画ではないと、
後半の密室劇でよう分かる。

だって、
この密室劇ってば終止、挑発的なんだもの。

そしてふと思う、
これってタランティーノ流の意思表示なんだろうか、、、

そう思えてしまえれば、なんだかんだ、
しっくりくる。

いやに、舞台風の演出とか、
小説っぽいセリフ回しとか、
いろいろ、今回は度が過ぎていて、、、

そして、スプラッター描写もやはり、
やり過ぎなくらいはっちゃけていて、
まぁ、楽しそう。

でも、何よりもこの映画でタランティーノは自身のスタンスを高らかに宣言しているのね。

これが本当の目的。

徹頭徹尾、その目的のためだけに作られたような映画。

でも、その目的の話をする前に、
まず、これだけは言っておきたいの。

そもそも、タランティーノらしさって、
スプラッターと言われることが最近多い気がするけれど、それは違うと思う。

スプラッターをタランティーノが大好きなのは確かにそう。

でも、スプラッター要素が強まったのってキル・ビルから。

レザボアドックス~ジャッキーブラウンまでって、作風は依然バイオレンスの領域だったはず。

だからね、
スプラッターって成り行き上の表現なんだと思う。

なぜって、タランティーノの根底にはコメディがあるからなの。

彼がバイオレンスを表現する際の、
前哨としてのコメディ。

あのくどいくらいの会話に散りばめられたユーモアってタランティーノの日常なの。

ビデオ屋で仲間達とふざけたジョークを言い合っていた、あの日常。

その日常がフィクションの中に放り込まれて、そして不意に一線を超えて人が死ぬ。

それこそが彼のバイオレンスの流儀。

バカげた、下らない、でもいとおしい、そんな日常が刹那的に暴力に染まる、その瞬間にバイオレンスが生まれる。

これこそが彼のバイオレンスの定義。

そして、そのバイオレンスをさらに元のコメディに揺り戻そうと、彼は目論むわけ。

そう、すると、
自ずとそれがスプラッターに変貌する。

彼は結局のところラップスティックコメディを、ようはドタバタ劇をやりたいんだよね。

そのドタバタ劇にバイオレンスを混ぜ込もうとする。

すると、、、

バイオレンス+ラップスティックコメディ
=スプラッター

これが成り立ってしまう。

この方程式を初めて仮定したキル・ビル以降、同法則がじわじわ成立していく過程がタランティーノ作品群の後半にかけての展開。

その展開上に、
デス・プルーフがあり、
イングロリアス・バスターがあり、
ジャンゴがあり、
そして今作がある。

それを前提として、
このヘイトフル・エイトの目的について考えてみる。

極端な見方をするならば、己の表現力を映画に次ぐ第8芸術とでも言わんとばかりな感じなんだけど、、、

だからのエイトなのか、、、
本人も撮影時にとことん8にこだわっていたと聞く、、、

いやいや、おそらくそこまでの大層な意図はないでしょう。

ただ、やはり、言うまでもなく彼は脚本にすべてをかけている。

創作することの喜びに心から浸っている。

その作品を彩る数々の表現力が、
オープニングシーンで魅せた渋みであったり、
役者の表情やセリフ回しであったり、
コメディmeatsバイオレンスだったり、
突き抜けたモラルハザードであったりするわけなのね。

でも、総じて言うならば、
それってユーモア。

いわば、創作とはユーモアと表裏であるし、そのユーモアが脚本へふんだんに練り込まれてる。

そして、そんなスクリプトをとことん礼賛している。

そう、
この礼賛こそが今回の最大の目的なんだと思うの。 

リンカーンのくだりってそれの大きな象徴。

レザボアドックスで見せた、
マドンナの「Like a Virgin」を男根崇拝だと見なした彼のユーモア。

後にマドンナからそれを完全否定されてしまうけれど、
彼にとっては作者本人の意図よりも、
自分がそう感じてそう考えそう発言する、すなわち創作をするというところに全幅の信頼を寄せている。

そうやって得られた数々のスクリプト達を彼は崇めたいわけ。

だから、タランティーノとは、
事実や真実よりも虚構の力強さや魅惑にとりつかれた天才なんだ。

いや、
むしろ根っからの性分なのかな。

映画や脚本ってその塊。

だから、
今回の作品。

僕もタランティーノにならって、
想像力を大いに働かせてみる。

すると、
スクリプト礼賛を擬似的なセックスで表現した作品と見ると面白いの。

長い導入部から中盤の予想だにしないドタバタ展開は、じつはラストの擬似セックスのために周到にしかけられた、パンチとウィットに富む脚本の妙なのね。

事実が真っ先に殺され、
真実が主導権を握った矢先、
玉を潰された虚構が女形に扮し、
男形の虚構と交わり、
真実を吊し上げる。

男女の虚構がセックスの果てに、
スクリプトを礼賛する。

タランティーノ作品って、
実は何らかの形でラブストーリーを描いているとも言われているけれど、
だいぶ強引なかたちでそれをしてみせて、
なおかつ己の信条を高らかに掲げてしまうというのが今作。

だいぶ下品だよ(笑)

でも、スクリプトに重きを置こうという、
10作品をもって引退をほのめかす巨匠の意思を全面に受け止めて、
僕も創作的に大胆な解釈をしてしまいました。

マドンナに否定されようが、
なおも自信の創作を貫き通す。

そして、当のマドンナ自信、
レザボアドックスのファンだと言うから、
嘘から出た誠というのか、
例え嘘であっても良くできた嘘は人を魅了する。

そんなこんな、
僕もこのヘイトフルエイトを、
擬似セックスの映画だと、
下品に吹聴しようと思います。

いや、だれも信じてくれないだろうな、、、
でもね、ほんとなんだから!!
そーた

そーた