なおちゃわん

セッションのなおちゃわんのネタバレレビュー・内容・結末

セッション(2014年製作の映画)
4.6

このレビューはネタバレを含みます

素晴らしい。
画の力がなにより脚本を彩っている。
歪な2人がラストに飾ったセッションこそが、本物の音楽だと思う。
久しぶりに素晴らしい映画を見た。
デイミアン・チャゼル。これでいいんだよ、

※劇場で見れたので以下、追記。
音響と画の力が格段に変わるので、是非劇場に足を運んで見て欲しい作品だと思った。

ニーマンにとっての「チャーリー・パーカー」は、彼が言う偉大な人という言葉が表すとおり、名実ともに世界に認められる音楽家を象徴している。
そこに至るためには実力を認められることが何より重要であり、そのためには犠牲も厭わない。
それ故に、実力を磨くことと実力を誇示することに心がとらわれてしまい、自分や周りの人には気持ちが行き届かない。
その様が滑稽だが、見ていられなくなる程に必死で、こちらを痛ましい気持ちにさせる。

一方、フレッチャーにとっての「チャーリー・パーカー」は、フレッチャーが考える本物の音楽家を象徴しており、名誉というよりは、音楽への向き合い方・スタンスにその本質があるように思える。
それ故に、楽団員全員の(特にニーマンの)意識(自己練習をしない、楽譜や楽器への意識が甘い、楽団としてのパフォーマンスを最優先できない)は大きく理想に反しており、それ故に苛立ちが止まらない。
ニーマンは、名誉と実力欲しさに、血のにじむような努力をし、実力も身につけ始めていたので見込みはあったみたいだが、チームを乱す言動が目立ち、フレッチャーはそんなニーマンを認めるような発言は一切しない。
フレッチャーが実施している「チャーリー・パーカー」の育て方は、例えるならジョジョ7部のリンゴォ・ロードアゲインが「男の世界」で生きていることと同じだ。
自分の理想を相手に押し付け、そぐわない者は認めない、受け入れない。
個人的には、間違っているとは思わない。生き方に一貫性があり、「おれは努力した」という主張にも納得できる。
でも多くの人にとって彼のやり方はひとりよがりの厄介おじさんにしか見えないだろう。
しかも、世界一の音楽学校の講師と来たもんだ。老害この上ない。

そして、この2人の「チャーリー・パーカー」が背反しているからこそ、最後のシーンが最大限活きるんだと思う。
フレッチャーは自分の理想を潰したニーマンに対して復讐をする。自分の正義を曲げ、演奏を台無しにしてまで。
ニーマンは、1度は心が折れるものの、フレッチャーの「演奏で恥をかいたら、演奏で見せつけろ」というロジックを使って、「うるせぇ、すげぇ演奏するから黙ってついてこい」と言わんばかりに強引な演奏を始める。それは、ニーマンの抱える正負の感情の爆発であり、楽団全体を押し上げ、衝撃的な完成度の演奏を作り上げる。
ニーマンは自分の正義(自分や周りを顧みずに、実力を見せつけるだけの強引なやり方)で、フレッチャーの正義をぶっ飛ばし、結果として誰にも文句の言えない演奏を作り上げた。
これが音楽、これが芸術、と言わずして、なんと言えよう。
正しさなんて必要ない、ただ感情がエネルギーになって表現は生まれるだけなんだ。

主人公の持つ課題が紆余曲折あって解決される映画が多い中、この作品は主人公の持つ課題はそのままで終わる。きっと彼は偉大な人にはなれないであろう。
でも、彼には輝いた瞬間があった。その輝きには価値があった。
そんな瞬間を切り取るこの映画のラストシーンは、やはり素晴らしいと言わざるを得ない。