シソウメ

セッションのシソウメのネタバレレビュー・内容・結末

セッション(2014年製作の映画)
2.2

このレビューはネタバレを含みます

終始、フレッチャーにイライラ。

楽器も大事にしないで何が教師か。

まあ彼にとって音楽家を育てるつもりは全くないわけなので、それは仕方ないのかもしれない。
たまたま育ったら凄いくらいにやりたいようにやっているのだから。

もし自分がニーマンだったらさっさと自分に合う教師に乗り換えるだろうし、もしくは暴力で応えるか、弱みを握って界隈を追放させるくらいのことに労力を消費するだろうなーと思うんだけど
最終的にニーマンはそうしない。

とにかくドラムで答えようと、復讐しようとする。
その精神は素晴らしいと思うし、フレッチャーに近しい部分を感じる。

音楽もスポーツも、極めるということは「好き」や「楽しむ」の向こう側を見なければいけないのだろうけど
ではアンサンブルとは何か、オーケストラとは何か。
そこには協調性も必要とされるはずだ。

この2人の関係が素晴らしいものであるか?
俺はそう思わない。
音楽ってものはただ殴り合うためにあるものではないし、
相手を傷つけるためにあるものではない、と思っているからだ。
現実で厳しい指導があるだろうが、少なからず暗い部分に耐えられるくらいの愛があるのだ。
なければ潰れるだけ。

時に殴り合いにも似たセッションも存在はするが、そこにはどこかしらへのリスペクトが存在してこそである。
それでなければ響き合うことはない。
響き合うことのない音楽など、他人にとってはどうでもいいこと。
ましてや壇上の2人以外の人間を置いてけぼりなんて音楽家として失格である。

むしろ好意的な意見が多くて驚いた。

勝手に2人でやるならば良い、でも最後のはお客さんを入れたコンサートでの戦いだ。
あくまで2人は芸術家だったということなのか?
ならば芸術家として「何を表現させるか、するか」という部分はあったのか?
正直映画内にその描写は感じなかった。

音楽に向き合っているというよりは復讐や嫌がらせに執着していると解釈してしまったし、
最終的に2人は自分達以外の人間は置いてけぼりで演奏する。
それって芸術家?
芸術家って自分でなるものではなく、他人が評価して初めてなるものだろう。
他者を除外した芸術など存在しない。

2人のオナニーを見せるサイコスリラーとしての映画としては斬新かもしれない。
でもそういった表現をした作品でもなければ、世間での評価もそこについてなされているとは思えない。

原題の「ウィップラッシュ」の通りで良かったし、これは監督の音楽や音楽教師への憎悪を映画化したもので
ストイックの在り方と、芸術なんてそこにはないというネガティヴなメッセージにしか感じなかった。

デイミアン・チャゼルはとにかく合わない。
演出とか、カメラワークは素晴らしいと思うが、題材がとことんイラつく。
そういう映画として作ったんだろうけど、馬鹿にしてる。
まったく楽しめなかった。
シソウメ

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