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『草の影を刈る』に投稿された感想・評価

家族の日々を収めたプライベートフィルムに、詩人のモノローグを重ねただけのシンプルな極私的ドキュメント。モノクロームの映像には音はなく、あるのは遠藤賢司によるギター音楽とモノローグのみ。だから映像の中の人物たちの声は最後まで耳にすることはありません。
亀戸の集合住宅で暮らす妻と息子のなんでもない日常が綴られ、夫であり父親でもある詩人が、フィルムを回すことになった経緯やその意味、撮り続けていくなかで抱いた心情などが、少しの気負いもなく淡々と語られていきます。映像それ自体はどこの家庭にもあるファミリーフィルムとなんら変わらない平凡極まりないものですが、ひとえに鈴木志郎康が評価されるべきは、街と家族を記録しそれを作品として世に出したこと、ただそれのみで十分でしょう。
半世紀ほどまえに収められたこのささやかな家族の映像に、普遍的ななにかを感じられるとしたら、それは永劫変わることのないノスタルジーではないでしょうか。
 【40年位前評3.9→3.8】各種映画スクールにも通った、自称映画作家の知人が「我が師」と嘆いてたのが気になり、約40年ぶりか(初上映時は当然観てない)、久しぶりに見たが前は小屋が小さく目だたなかった、16ミリの粗さか·経年劣化か、画質の艶がかなり失われ0.1ポイント下げた(間置いての再見作は、0.1ポイント位動く)。
 やはりポジティブに評価出来るは何ひとつなくも、しかし、これは故·志郎康の生涯唯一の観るに値する秀作である、その結論は変わらなかった(知らないが、NHKカメラマン·詩人としても大したことはないと思われる)。自分がいかに凡庸サイドの人間で、全く天才に恵まれないのを、馬鹿な夢を抱いてへばりついていく中·その距離を自覚し本来の自分を引き受けたを、3時間にわたり頭の悪さを曝け出しながら描きつけた、映画作家ギブアップを暗に行なった異色作だからである。ある意味、清々しい。その意味で大作家の名作より、我々凡人は身近に滲み入るものがある。本人は本質に気づいてなく、この後も似非作家活動を続けてるが、貴重な愚者の記録である。そして愚者の中にも真正の作家と通じる、何らかの姿勢は、ものにできなくとも我々にも見せられる。その可視世界を提示出来る役目は持てる、を結果著してる。志郎康とかわなかについては、このムーブメントのパイオニアに近い存在でありながら(より早い松本は単独存在だったか)、個人的には、両·原、奥山、伊藤らの俊英の後、遅れて’80年代に入って観たのが最初だったとおもうので、‘愚鈍の(口を滑らすと)化物’にしか見えなかった。今述べてる作を除けば悉く、観た限りにおいては駄作のオンパレードだった。前者はシンプル·リリカルを装おった単なる馬鹿、後者は当時知られてない海外手法を剽窃して高級感を装った詐欺師。は、言い過ぎだが、正直な印象はそうだ。本人たちはパイオニアを気取っても、際立った馬鹿ぶりは隠せない。
 定点観察的に「日常」を取り続けるを課し、日の出の計測値出測れね美、年末年始の区切り感、家族~息子の成長具体現れ、新カメラ購入らを機に決意し、実行してく。飽きがくるので、物の持出し介在、窓際からの風景からの逸脱、らを自らが働きかけるかたちの維持の刺激としてく。時々の新聞·TVCMも入れて、瞬間の具体日時をはっきりさせるが、それらに入り込むに連れ、逆に日常に呑み込まれてく恐怖も覚えてくる。しかも、撮るり方の奇異さを加えても、地上や屋上に移って対象を拡げても、更に正確に多くを積み持続しないと日常の全体ニュアンスには近づかない。それが1976年終盤から年始の自分決めルール遵守と葛藤。そもそも、それ以前個人用カメラを購入使用を始めた2年間、何かの個的イベントの都度普通にカメラを回してたが、今見ると当時の考えてた事を通しての世界感触は何も写っていない。かつ、今のそこの光景と無縁の独立世界にも見える。子供の時のから馴染んだ亀戸辺空間とも既に違う。しかし、撮影者の拘りや記憶を仲介させる事でこれは位置を取り直させる。
 そして、’77の初春は、周囲だけをとり続けてく、苦痛から出勤路の多様な対象への、日々カメラ向けに変えてく。しかし、毎日繰り返し同じ対象らぬカメラを向けてしまう、自分の固有嗜好やリズム、の固有作家性·人間性の拠り所にきづく。
 が、なにより40を過ぎてからの、体力·気力の疲弊が人間関係まで全てを蝕み、廻りの対象に新規のアプローチを見続けてく作家活動は、逆に自分が見入られてる侵食感の強まりに転じてく。それは言い訳かもしれないが、書物の作家からは自分と同じ苦しみだけと、四国の転勤した友を訪ね、またNHKから逃げ出して、スランプ脱出·仕事の絞り込み、と称し自分の才能なしを、病や老いによる挫折·方向転換と体面は保ちながら受け入れる。確かに鈴木はまるで才能はない。創り手の能力はないのにそれを気取ってる凡才の、悲喜劇は、意図しない程度の悪い『81/2』だが、本当の意味での人間の身分相応の等身大パズルだ。そういう人間でも、唯一その認識の葛藤映画だけは作れる。リリカルな音楽や、作者によるいま時点からのナレーション、白々しくはあっても。
 飲み屋で知った人を嘲ってたので、叩き出すと、泣きながら逃げていったのがかわなかだった、偶然よりは、鈴木と面識はある。20世紀末あるワークショップの講師が偶然鈴木で、以前からかわなかと並び、自分の見せかけの地位を脅かす新鋭への上映妨害の繰返し犯罪行為の噂は聞いてたので、合評会の時、もう一人の講師·加藤到さんとは興味深く話し込んだが、この日、誰の組合せより最長に語りあった鈴木とは、映画や表現には全く触れず、暗に逆に吊し上げた。鈴木は目をそらし続け、苦しそうだった。彼が選んだ古巣NHKで流す、この地の歴史と報道に関す作品は、表現としてあってはならぬ、既存素材を古風トーンに直しただけの、メーカーソフト完全依存の、最も作家性に欠けたものだった。彼の口癖は作家性に向かえ、だったと記憶するが、自らが最も縁遠い絵に描いた餅を自分では分からず、本物と思ってたようだ。こことは違ったが友人から、教えてる所で、生徒の殆どが先生付けせず、面と向かって「貴方は駄目な存在だ」なんて言ってると聞いた時には、誰にも蔑まれてるのか、悪い事をしたかな、とも思った。只、馬鹿でもやれる事はある。それを自覚する事が大事だ。
 それにしても、「愚鈍の化物」旧NHK残骸のこの自称映画作家の死を悼んでたのは、先の奇特な知人位しか知らない。