遊

ナイト・スリーパーズ ダム爆破計画の遊のネタバレレビュー・内容・結末

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このレビューはネタバレを含みます

※ケリーライカートの複数作品のネタバレがあります


社会はNHKのようなもので、自分がこの世に生を受けた瞬間からその「恩恵」とやらを無断で浴びせてくる。死ぬまでその手を緩めない。すると我々は成人した辺りから「お世話になっている社会に貢献」しなければいけなくなってくる。選択/拒否の余地がない。テレビが無くても何かしらの受信機はありますよね?と食い下がってくる鬱陶しさを蹴散らす術がなく、「社会を無視して自由気ままに生きていく」態度を示そうとすれば

「(社会がつくった)服着てますよね?」
「(社会がつくった)家住んでるよね?」
「(社会がつくった)言語で、会話してるよね?」

と、社会の恩恵だけ受けて責任は果たさないフリーライダーとして糾弾されることになる、

生まれた世界の社会が気に入らなかった場合
どうすることもできない、離れられもしない

それならばいっそ気に入らないこの社会を(漸進的でなく、自分の生きているうちに)変えてやる、と苛烈な行動に出るのが「テロリズム」となるのだろうが、

この映画は「いち個人が(ダムを一基破壊するくらいの)破壊行為を(すごく頑張って)実行しても、社会は全く微動だにしない」「むしろ個人の人生がその行為に振り回されて破壊される」という大きすぎる絶望を描いている
じゃあ現行の社会に馴染めない者はどうすればいいのかなんて示してくれない

ケリーライカートはただ描くだけで、誰も否定も肯定もしない
リバー・オブ・グラスで家族を捨てて彷徨に出るコージーも、
オールド・ジョイの山でフラフラ暮らすヒッピーも、家庭を築き真っ当に働く道を選んだマークも、
資本主義社会から落伍して、愛犬とも別れて全てを失うルーシーも、
何十人の人生を背負っておいて適当な仕事しかしないミークも、耐え忍んで歩き続け、編み物をし続ける女性たちも

社会ではこういうふうに生きれば希望を持てる、という描き方もしない 
「ほかにより良い選択肢が無い」人々を描くからおのずと絶望が立ち現れてくるけど、そこに 人生って辛いよナ...死にたい時もあるよナみたいな湿ったエモーションを一切乗せないので観ていて気分が落ち込みはしない 距離をとってドライに、ニュートラルに描かれたものを観て、むしろ安心感に近い感覚も得られる

全てをニュートラルに見る、
何かを肯定することは別の何かを否定することになるから、この世の一切を否定も肯定もしないということが最終的な全肯定なのかも??
遊