そーた

ズートピアのそーたのレビュー・感想・評価

ズートピア(2016年製作の映画)
3.9
痒いとこに手は届く??

多様性という言葉が多用されて久しい昨今。

多様ってなにやら大事であるのだろうな、とは誰もが思うところ。

でも、言葉ってひとり歩きしてしまう。

ときにはもてはやされ、ときに祭り上げられ、
そしてふと気付いてみればなんだかそれはそれは空虚だったりもする。

そんなことばに踊らされるひとたちってあほだよなーっ、て思ってしまう根の暗い部分が僕にはある。

スローガン化した言葉ほど力なく、
やはり形のないものにこそ、
力満ちると思いたくなるのは、
根からの性分。

愛だ正義だというのが昔からきらいできらいで、、、

多様性という言葉に漂う、
どことない理系感が僕をくすぐるのだけれど、
でもそれもつかの間、
やはり実態は愛や正義と同じもの。

舞台は、
動物でデフォルメされた多様性の街ズートピア。

それは、ルネサンス期の思想家、トマス・モアの造語「ユートピア」をもじった理想郷。

そのユートピアということばに込められた「どこにもない場所」という意味を知ってしまえば、
やはりズートピアが体現する多様性を現実社会に見いだそうとするのは骨折り損のくたびれ儲け。

どこにも存在しない楽園のような世界をあえて語ることで、逆に社会を風刺するという皮肉めいたトマス・モア流の問題提起。

それをディズニーが模倣したとは考えづらい。

むしろ、ディズニーの目論みはやはり、
表面的なことばの響き、
愛だの正義だのと同じく、
多様性ということばの語感を作品へと昇華することなんだと思う。

だからこそ見てくれはよくても、
では、その中身は果たして、、、

いやいや、
穿った見方をしてしまって、
どうもいけない。

作品自体はメチャクチャ面白いの。

バディムービーの定番といえる、
不釣り合いな組み合わせに、
ウサギのジュディとキツネのニックという天敵同士をあてがう斬新さ。

また、ニックの方が常識人というか、浮わついたジュディよりも、地に足つけている感じは、じっくり狩りをする肉食動物の特性なのかもなと深読みできる。

すると、ぴょんぴょん飛び跳ねるウサギの俊敏さは、田舎から都会に出てくる若者の心踊る感覚を表現していそうで興味深い。

ただ、やはり僕が好きだったのは小ネタの数々。

素っ裸のヤクとか、
マフィアのボスのサイズ感、
スマホのキャロットマーク、
そして、何よりナマケモノ。

明らかに大人に向けられたその仕掛けの数々。

多様性をユーモアたっぷりに描いて見せるその手法。

それらを目にしたとき、
ふと気づく、、、

多様性ってさ、
こういうこと ?

あらゆるものが共存しているその状況が醍醐味なのではなく、
新しいものを受け入れるその受容力こそに注目すべきなのかもしれない。

多様を多様ならしめるためには、
受け手の許容が不可欠なんだ。

冒頭、ジュディがウサギ初の警官になったことはその象徴。

そして、同時にそれを簡単には受容しない社会。

そこに立ち向かう主人公。

てっきり、誰もが何にでもなれるというありがちなテーマなのかと思いきや、
意外に深いな、と思えてしまうのが後半にかけての展開。

ただ、痒いところに手が届かない。

どうすれば受容されるのか、
どうすれば多様たりえるのか。

知りたいのはそこなんだよ。

いやいやまて、、、

答えを求めてしまうところに実は落とし穴があるのかもしれない。

進化によって動物達が共存できたという、一見乱暴な冒頭の説明。

進化ということばに刻まれた、
自然による確かな試行錯誤の古傷。

ことばに踊らされていたのは、
もしかしたら僕のほうだったのかもしれない。

形だけのものを拒否するがあまり、
その中身の部分には目を背けていた。

愛だの正義だの、多様性だのを、
字面だけで拒否していた。

それは、表面的にそれらを理解したつもりになっていることと何ら変わりはない。

映画に答えを教えてもらうのではなく、自分で考える。

映画はあくまでシンボルなんだ。

そして、そのシンボライズの真髄を極めたディズニーを悪し様に言う権利は僕にはなかったな、、、

トマス・モアがユートピアに込めた意味。

どこにもない場所だから考えるに値しないのではなく、
その場所に行き着く道程に思いを馳せること、
それこそが現実に生きる僕らの実現可能な筋道なのだ。

現実にユートピアがないからこそ想像する。

子どもの時代はそれでいいんだ。
そして、その穴を埋めるのが大人の仕事。

なんて、反省をしてみるのもたまにはいいのかな。

30代後半にもなり、
少しだけ大人の考えが出来るようになりました。

って、実は大人ってことばも嫌いなんだけどね(笑)
そーた

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