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アベンジャーズ/エンドゲームのFMLのネタバレレビュー・内容・結末

2.0

このレビューはネタバレを含みます

思えば、アベンジャーズはアイアンマン(トニースターク)とキャプテンアメリカ(スティーブロジャース)の、対比の物語だったんだなぁとここまで観終えて、しみじみと実感している。

わがまま、傲慢、リーダーの素質がないにも関わらずトップに立ってしまった者の末路
一方は幸せに、一方は、不幸せに(覚悟を決めて戦いに赴き、誇り高く散っていったとはいえ)

この両者の方向性はエイジオブウルトロンあたりからわかりやすく提示されるようになった。
アイアンマンの単独作品は、"アイアンマン3"をもって2013年に完結した
その後、2015年にアベンジャーズとしての"エイジオブウルトロン", 2016年に"シビルウォー : キャプテンアメリカ"という順番で公開されている

エイジオブウルトロン以前のアイアンマン3でも2014年の"キャプテンアメリカ : ウィンターソルジャー"でも、両者は明確にヒーローとして描かれている
ヒーローというのは、市民や、政府、世界から向けられた反感、不信感、なども含めての意味である
(無条件に英雄として称えられるわけではないというのは、アベンジャーズのみならずMCU全体でも統一されている)

しかし、エイジオブウルトロンから急に風向きが変わった
"危険とわかっていながら"ウルトロンを開発し、世界を危険に晒したトニーが、またしても"危険とわかっていながら"ウルトロンを、さらに進化させようとする
(結果的にヴィジョンが誕生したわけだが、あらゆる犠牲を伴ってあまりにも多くを背負い込んだ彼の運命がいいものだとは言い難いはず)
この時点では、トニーが異常な発明家として写り、なんとも後味の悪い結末になっていた

そして"シビルウォー"では、トニーが冷静さと人間性を少しは開花し始めたかと思いきや、今度はスティーブの異常な正義感がフィーチャーされることになる
正義のため、自分自身の信念のためならルールを破ることも厭わないどころか、そもそもルールを決めさせない。
「ルールを受け入れたら自由に動けなくなる」と、はなからルールを守る気などかけらもない男が言うのである。

シビルウォーの見どころはアベンジャーズvsアベンジャーズの内戦と観る前までは思っていたし、実際途中まではその通りだった
スパイダーマンやブラックパンサーの初登場、それぞれの特性を活かしたバトル
そして、キャプテンアメリカにもアイアンマンにもそれぞれの正義があることを中盤あたりまではしっかりと描けていた

終盤で、それは覆ることになる
ウィンターソルジャー(バッキー)の暴力に満ちた過去を、トニーの両親の死の真相を、知っていたにも関わらずスティーブはそれを秘密にしたまま戦っていた
そしてその秘密を知り、怒りをあらわにするトニーを、スティーブとバッキーは2人がかりで痛めつける(痛めつけるというより、いじめているようにしか見えなかったが)
ラストは、"キャプテンアメリカ"からの愛のこもった手紙を"トニースターク"が広い心を持って受け入れて幕を閉じる

けど自分の両親の死の真相を知ったトニーが怒り任せにバッキーを攻撃したことも、エイジオブウルトロンでのワンダやピエトロ、そしてそのシビルウォーの黒幕だったヘルムートも結局はみんな同じような行いをしてしまってるという、皮肉めいた物語の顛末であることも言うまでもない。

そして、スティーブに対する不信感だけが募ったまま"インフィニティウォー"に突入し、サノスの指パッチンにより世界は崩壊する

ようやくたどり着いた"アベンジャーズ : エンドゲーム"

指パッチン後の世界の崩壊、残されたヒーローたちの団結、そして復活
そういったものを軸に描かれると、勝手に思い込んでしまっていた
蓋を開けてみれば、なんちゃってタイムトラベルスーパーヒーロードタバタSFアクションでしかなかった
まるでアベンジャーズがこの世の中心かのように物語は進んでいき、混乱のまま5年間もの時間を過ごした市民たちの生活はほんの、ほんのわずかしか映し出されない
スティーブも偉そうに「前に進むしかない」と淡々と語ってたが、そのスティーブがこの映画のラストでどういう行動を取ったかを見れば、世界中の人間、そして今まで共に戦ってきた仲間たちへの冒涜としか言いようのないあまりにも軽々しい言葉に聞こえてしまう

このシリアスな世界観の中に、中途半端、いや、下劣といっても過言ではないコメディ要素、70年代、80年代、90年代から全く進歩しない腐りきった日本の描写(日本人である真田広之でさえまともな日本語を喋らないという、圧倒的カオス)
0.01ミリコンドームよりも薄い、薄っぺらい、薄すぎる感動要素
まるでこの世界の絶望を映画自体に閉じこめたようなどうしようもない脚本と演出で物語は進んでいく
いや、正確には戻っていく。
いや、戻りながら進んでいってるのか。

今までの努力や成長や感動を踏み台にしてまで、描きたかったものがこれなのか
インフィニティウォーで"愛するものを犠牲にしなければ手に入れることができない"ソウルストーンを手に入れるためにサノスがガモーラを崖から落としたシーンでの不思議な感覚

サノスにも愛がある。
サノスも涙を流す。
サノスにも正義がある。
そんな素晴らしい激情の末に手に入れたソウルストーンを、なぜナターシャが自ら身を投げることによって手に入れられるのか
そもそも、クリントとナターシャの"どっちが先に自殺できるか競争"を極めてシリアスなトーンで見せられるこの空虚をどう埋めればいいのか
結果的にナターシャは死んだが、もちろんそこに感動などないし、なぜクリントの手にソウルストーンが授けられるのかも理解できない
ナターシャに対する愛がクリントにはあるかもしれないが、その愛ってそういう愛じゃないんじゃないのか
人を殺すことによって涙を誘う安っぽさを、この後に及んでまだ入れてくるのかと別の意味での悲しさすらこみあげてきた
まぁ、ナターシャは死にたかったのかもしれない。
こんな世界でこれ以上生きていたくはないと思ってたのかも
そう考えると、ナターシャロマノフという一個人の生き様としては、見事だったということか

ソーやハルクなど、もはや語る必要もない
"アベンジャーズ"でありながら、最後の最後でコメディ要因として扱われた悲しきヒーローたちの姿がそこにはある

過去の自分たちとのインフィニティストーン争奪戦
キャプテンアメリカvsキャプテンアメリカ、トニースタークとハワードスタークの対話、ソーとフリッガの再会など描きたかったことはすごくよくわかる
けど、そこでそれをやるべきじゃないことは製作側も観ている客側もすごくよくわかってるはず
正確にいえば、「そんなことやってる場合じゃない」
何回も繰り返し、チャンスは1人1往復分しかない、失敗したらすべてが台無しになると警告があったにもかかわらず、誰もが自分の時代での"やりたいこと、感傷"を抑えきれず言い方は悪いが無駄に時間を過ごしてしまう
もちろんそれに関しては自分たちのエゴを押し通してしまった製作側に非があるのは間違いない

半端ない違和感やこれが観たいんやろ?的な製作側のドヤ顔が浮かぶ構想の果て、ついにサノスとの本当の最終決戦が始まる
そしてピンチになったところにいきなり現れる、過去から戻ってきたヒーローたち
あんなにいきなり、しかも一斉に、すべてのヒーローが同じタイミングで戻ってくることなんてあるのか
みんなで一緒に出ていって驚かせようぜと裏でスタンバイしてたとしか思えない
それも、ピンチの時にみんなを出ていかせて客を喜ばせようという製作のエゴが垣間見える瞬間である
180分の上映時間のうち、ここまでで大半を費やしてしまったせいで感動のはずのラストバトルもそれぞれの活躍時間が少なすぎて満足感は全くない

しかも舞台が地球のはずだが、一体彼ら以外の一般市民はどこでなにしてるのか
いくら人口が半分になったとはいえ、メディアも軍隊も存在してるはずだが、そんなものが現れることも、例えばテレビ越しに応援するような描写も一切ない
ヒーロー映画なのにヒーロー"しか"描かれない映画に、ヒーロー映画としての、ラストバトルとしてのカタルシスを見出すことはできない

激しいインフィニティストーン争奪戦の末、ドクターストレンジが"インフィニティウォー"で言っていた1400万分の1の瞬間がやってくる
"アイアムアイアンマン"
さすがにこれは、文句なくかっこいいといえる
トニースタークは自分の命を犠牲にして、この世界を守ろうとした
2008年の"アイアンマン"から10年で、男として人間として遥かに成長して、真の意味でのアイアンマンになった瞬間である

やっとのことで、世界に日常が戻り、束の間の安息──
トニーの葬儀に集まる大勢の仲間たち
クリントがワンダに対して、「勝利をナターシャにも知らせたかったな」というと、ワンダは「きっと知ってる、2人とも」と浮かない顔で言う
この2人のうちの1人はヴィジョンであることは言うまでもないが、葬儀に参列した者たち、アベンジャーズですらヴィジョンに対する弔いやワンダの心労を察する言葉すら投げかけない
この場合のそれは、"みんな大事なものを失ったから"みたいなものではなく、誰も"ヴィジョンが死んだことを悲しんでない、いやむしろ"覚えてすらない"から、というものに思えて仕方ない
エンドゲームと言っておきながら終盤にこんなにわかりやすい伏線を張るところに、終わらせる気など微塵もないMCUの商売っけがこれでもかと漂ってくる

トニースタークがみんなに惜しまれながら誇り高く散った一方、キャプテンアメリカはどうなったか
過去から借りてきたインフィニティストーンを返すために1970年に行き、戻ってきたらおじいちゃんになっていた。

「過去に戻って、自分の人生を生きてみるのも悪くないと思ったんだ」
そう、スティーブロジャースはその時代にとどまり、ひとりだけ青春を謳歌していたのである

それはもはやキャプテンアメリカではなく、ただのアメリカ人のスティーブロジャースでしかない
そんなスティーブがこれを君に捧げると言って、サムに盾を渡すが、おまえにその資格なんかないやろ、としか思えない。
ウィンターソルジャーであるバッキーはこの先も過去の行いや償いを背負って戦い続けなければいけないのに、スティーブは年老いて幸せに死んでいく

愛を捨ててまで死んだトニーと、愛を捨てきれずにのうのうと生きるスティーブ
典型的なアメリカそのものの具現化であるキャプテンアメリカ、結局最後まで兵器としてしか扱われなかったアイアンマン
歪んだ正義から真っ当な正義へと成長したトニー、真っ当な正義から歪んだ正義へと変貌したスティーブ
その対比の物語

この作品でのキャプテンマーベルの必要性のなさも女性ヒーロー結集のシーンも、ソーの体たらくもハルクのコメディキャラもナターシャの死もクリントの解読不可能な日本語もこれまでのMCU全体の感動も苦労も激闘も、すべてはラスト、スティーブがペギーとゆったりとダンスするシーンのおまけでしかなかった

エンドゲーム本当の内容、それは"第1回チキチキ!キャプテンアメリカのペギー奪還タイムトラベル"だったのである

けどそんな終わり方でも、このMCUがくれた喜びは、点と点がつながり線になっていく興奮は間違いなく本物だった
ガーディアンズオブギャラクシーで涙させられ、アントマンでは素直に笑って楽しむことができた
MCUと出会えて心からよかったと思う。
だから敬意をこめて、言わせてもらうよ。
みんな、みんな、みんな、3000回愛してる。
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