カラン

カフェ・ド・フロールのカランのレビュー・感想・評価

カフェ・ド・フロール(2011年製作の映画)
4.0
69年のパリのダウン症の息子とその母親から、2011年のカナダ、モントリオールの家族と新しい恋人への接続を巡る映画。デヴィッド・リンチの『インランドエンパイア』(2007)や、キエシロフスキーの『ふたりのベロニカ』(1991)や、ベルイマンの『ペルソナ』(1967)に連なる、不可能な出逢いの映画。

『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』(2017)のジャン=マルク・ヴァレ監督であるが、『雨の日〜』以外は『ダラスバイヤーズクラブ』(2013)しか観たことがなかった。本作は『雨の日〜』に近く、『雨の日〜』よりもぶっ飛んでいると見なすことも可能かもしれない。その可能性を深掘りしてみたい衝動に駆られて、今こうして書いている。

映画は、2つの時代の2つの地域にまたがっている。しかも常識的な意味では重なりや繋がりは存在しない。繋がりようがないものをヴァレ監督は繋げたがっているように見える。

この繋がりを「生まれ変わり」と呼ぶならば、ずいぶん大げさなバージョンの何某の名は・・・となるだろう。そう考えて楽しい人はそれでいいが、切り捨てるのは間違いだ。それとは別のところにこのマイナーな映画の特有の試みや本来の面白さがあるのではないか。以下に、長々と書くが、全面的にはこの映画を支持していない。部分的にとても面白かったという話しである。



☆繋がらないし、繋がらないし、繋がる

ポール・トーマス・アンダーソンの『マグノリア』を愉しんだ人たちは、”It’s not going to stop…”と、違う空間にいる異なる人物たちが一緒に輪唱しているかのように映るシーンを覚えているだろう。エイミー・マンの”Wise Up”という曲であるが、ぞぞぞ~っと総毛立つ快感を覚えなかっただろうか?あれは劇中の人物たちがクロスカッティングなのかパラレルな並置というのか、とにかくカットでたまたま繋がっているだけで、関係などありはせず、仮に人物たちに関係があったとしても、その関係がうまくいかないことに苦しんでおり、皆がばらばらに砕け散ってしまいそうだからこそ、つまり平たく言って、輪唱不可能であるからこその快感なのである。無関係のものが関係しあい、離れているものが響き合うとき、今観ている映画によってしか知覚することが叶わない共鳴・共振の光景に、人は酔いしれるのである。上に挙げたリンチやキエシロフスキの映画も同様である。ベルイマンの場合、こうしたことはプロトタイプとしての古典にふさわしく、多様な要素の中で共鳴するダブルは兆しのように芽吹いているのである。


☆モンタージュと変奏

こうした遠い響き合いをこの映画『カフェ・ド・フロール』もまた追及している。タイトル出しの前後のシーンですぐに並々ならぬものを感じて、ディスクの状態をチェックするだけのつもりが、目が離せなくなって、結局最後まで見終わってしまった。この映画の導入部では69年のパリと2011年のモントリオールを音楽が、続いて飛行機が超えていく。映画の冒頭なので、いくらナレーションが付いているといっても、鑑賞者には映画の筋立てはまったく見えないので、ヴァレ監督はまずは音楽を先行させる。

1960年代のパリでレコードとして普及していたかのように映画内で扱われている”Café de Flore”という楽曲は、もともとは2000年にマシュー・ハーバートというイギリスの電子音楽家が作曲したものである。なお、この楽曲のタイトルが映画のタイトルになっている。パリの老舗カフェも登場するがこれは陽動。

冒頭、まっくらの画面に誰かの寝息に続いて、いきなり、裕福でいかにもうわべの成功を収めている男がプールに潜る。ライトブルーの空間の外では、明らかに年の若いゴージャスなブロンドの女が戯れているのをスローモーションでとらえ、情熱的な性行為。空港に向かう車中でカーステレオのボリュームのつまみを回した手は女の膝に。ゲートで見送り、遠目に手を振らなかったら分からないロングショット。男が搭乗口に向かう通路でずっと鳴っていただろう曲がバンドネオンのような楽器で変奏されているが、曲のイメージが見えてくる。男とすれ違うようにダウン症者たちの集団とすれ違うのをスローモーション。集団の後方にいたダウン症者の女はカメラを微妙に見ている。すると、パリの石畳の路地にあるアパートにジャンプ。先の曲、つまり”Café de Flore”が鳴るし、歌うし、身体でのるし、レコードをかけるのである。そしてパリのアパートの窓から飛行機が空を飛んでいるのが見え、空港にいた男、2011年モントリオールであると指定された男がDJの会場にやって来るのである。

記憶で振り返ったが、実際にはもう少し複雑であり、ピンクフロイドの”the dark side of the moon”の冒頭を寸断しながらかけたりしている。とにかくヴァレ監督は2011のモントリオールと’69年のパリを繋げたのである、映像のテンポを変えて、同じ曲を変奏して、別の曲で分断して、モントリオールで搭乗する前にダウン症者たちとすれ違い、パリでダウン症者に空の飛行機の軌跡を指でなぞらせることによって。


☆それから・・・

異なる時代が同じ映画の俎上に乗せられたのである。次は、2011年の男(ケヴィン・パラン)と恋人(エブリヌ・ブロシュ(注:『静かなる叫び』の物理ができないルームメイト役やった人。その時より美人))と元妻(エレーヌ・フローラン)の三つ組みと、69年のパリの母親(バネッサ・パラディ!)とそのダウン症の息子とそのダウン症の女友達の三つ組み。この2つの三角形をどう接近させ、重ねあわせるかということが、この後の映画の展開となる。基本的には同じような作戦であると思うが、一度観たきりなので、拾いきれていないかもしれない。

生まれ変わりであるとか霊媒師やらが登場するが、こういうのはパリにある実在のカフェ「カフェドフロール」を映し出すのと同じ陽動である。あるいは”Café de Flore”という2000年制作の楽曲のレコードを69年組が取り出すのと同じではないか。また、2011年の男がサイコセラピストと思しき初老の人物と話すのも同じく陽動。こういう種々の陽動を重ねて、別の楽曲でジャンプカットをしたりもするのだが、手数がつきたか。あるいは、本質的には①曲によるシーンのまたぎと②カットバックのようにクロスカットをかける、この2つしかないというのが、映画を半分観たらつかめるだろうし、そこからはあまり新味のない展開となってしまっているかもしれない。

ただ、タイトル出し前後の20~30分くらいは、上述したように非常に新鮮な映画の悦びに満ちており、何度でも楽しめると思う。


☆パリ、おぉー、パリ

バネッサ・パラディってアイドルで、ジョニデと〜っていうイメージだったのだけど、とても立派な演技をする方だと分かった。今回の撮影は大変だったと思う。バネッサが輝かしい演技を示したパリでのロケは、撮影も抜群である。露光を抑えた色調で、少し外したアングルであったり切り取りになっている。ソクーロフの『ファザー、サン』(2003)はリスボンロケを混ぜっているが、石畳の路地をシャガールのように撮っていた。そういう大きなアナモルフォーズではないのだが、誰かの目線、普通とは少しだけ異なる誰かの目線でパリを撮っていた。ジャケ写の下はそのパリロケのショットである。
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