レインウォッチャー

ミストレス・アメリカのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

ミストレス・アメリカ(2015年製作の映画)
4.5
野ざらしのジグソーパズル。

ノア・バームバックとグレタ・ガーウィグの蜜月が『フランシス・ハ』(’12)に続いて生み出した作品。
というか明確に地続きと言ってよく、グレタはここでも「モラトリアム期から抜け出せていない芸術家肌の女子」ブルックを演じている。ただ地続きとはいえ、彼女が発するバイブスは裏表といえるほど異なって見えるところが興味深い。

どちらの人物もそのちょっとしたエキセントリックさがチャームに繋がっていることは共通でありつつ、フランシスに比べて今作のブルックはそれがより外交的なベクトルへ向かっており、野心家で時に自己中心的な印象が強調される。
これは、その人自体を主役・主体にして描いた『フランシス・ハ』とは逆に、今作ではもう一人の主役兼語り手であるトレイシー(ローラ・カーク)を置き、彼女による外部・客観的視点から光を当てることによって浮かび上がった別の人格的側面ともいえるだろう。

親同士の再婚というイベントを機に、交わるはずのなかったブルックとトレイシーの人生がひととき交錯する。
ここから始まるすこし歪でビターなシスターフッド作品として見ることもできるし、文字通りブルックにインスパイアされた小説というフィルターで彼女を「描写する」トレイシーの行動が、そのまま作り手(=クリエイティブを生業とする人々)の自己批判のような役割を果たしているようにも思う。

見どころはやはり人間関係のパワーバランス的構図やその変容の描き方にあって、その匙加減というかドットの置きどころはいつもながら絶妙だ。派手な悲劇などは起こらないが、その機微をニヤニヤと愉しめる人であれば間違いなくお薦めできる。

ドライでありながら笑えるし、いたたまれなくも愛おしい。
完璧に輝いて見えるあの人もどこかに寒々しい空洞を抱えていて、いくら歳をとろうと自分では気づくことができないこともある。そしてそれを教えてくれるのは、必ずしも好ましい人との盲目的に甘い関係だとは限らない。痛みをもって、その窪みも含めた自分の形を知っていくことで、少しだけ前に進むことができる…。

また、中盤以降で舞台がとある家の中に移り、さらに複雑に人間関係が入り乱れるのだけれど、ここがめちゃくちゃに面白い。

限定された室内空間の中でまるで舞台作品のようにムードが一変し、会話劇の応酬が始まる。次作『マイヤーウィッツ家の人々』でも感じたことだけれど、バームバック氏のつくる会話のテンポはかなり早いと思う。それが笑いどころも生んでいるし、緊張感も醸し出しているようだ。
階段などの段差装置を使った、人物たちの精神的優劣(必ずしも「上」が優位とは限らない)を視覚化するような効果も見られたりして、ただの痴話喧嘩や小競り合いな筈が奥行きがあってスリリングですらある。これがアンサンブルと呼ぶべきものだろうか。

その場で紆余曲折の果てに(経緯がややこしすぎるので説明は省くが)トレイシーがブルックを含めた全員から責められるという展開になる。
ここ、もしかすると意味がわからないとか、理不尽な印象を呼んでしまうかもしれないけれど、わたしは「場に充満した空気」の力学であると理解した。その場の誰もが誰かに何かしらモヤモヤとした不満を抱えていたところ、明確な捌け口が見つかったところで決壊をした、という感じの現象である。
こんな表現、他では見たことなくって感動したし引いたし笑ったし、ここだけでも夜通し語りたい。

総合して、バームバック氏(あるいはグレタ?)のもつリズム感なのだと思う。しっくりくるかどうか、乗るかそるか。
わたしはどうやら彼らのピースが窪みにはまってしまったようで、目が離せない。

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劇中でブルックがステージに飛び入りするNYのライブハウスで演奏しているのは、2000年代以降のUSインディーを代表するバンド、ダーティ・プロジェクターズ。
なぜか(?)演奏の音源等は流れず(登場シーンには別の楽曲が被さっている。Hot Chocolateの『You Could’ve Been a Lady』だ)残念だけれど、いわゆるフォークロックの枠組みをプログレやアフリカンリズム等を咀嚼した要素で越境する、クリエイティビティに溢れた魅力的なバンドだ。

メンバーは流動的ながら、常に複数の女性ヴォーカリストを擁して複雑で美しいハーモニーを聴かせてくれるのが特徴でもある。
どこか、今作の「歪なシスターフッド」を思い出させもする、かもしれない。