koumei

美女と野獣のkoumeiのネタバレレビュー・内容・結末

美女と野獣(2017年製作の映画)
3.1

このレビューはネタバレを含みます

リベラルから保守回帰してたようにも見えるし、このロマンティックラブイデオロギー全開のフォーマット使っていかにそれを裏切るか、を、一見裏切ってないように見せて裏切ってるという深読みもできる作品で、考察していくと意外と深いことにも気づかされた作品。
原作に忠実に、オチも変えずに、という制約の中で、ということなら80点、変えてもよいのにあのストーリーでやったなら50点

原作から変えた印象を受けたのは下記。
・キャラクターがフラットになっている。王子は醜いけど性格は良い奴、というより、老女を城から追い出したパリピ的キャラだし、ガストンもそこまで横暴ではなく求婚に失敗し続けるストーカー的キャラ、ガストンの相棒のルフウも相棒ホモソーシャルとしていい味出しているし、王子が善でガストンが悪という単純な二項対立にしておらず、良いところも悪いところもあるというフラットな描写にしている。
逆に、王子は老女を追い出す、ガストンはベルの父を縛り付ける、という悪行を行うと災いが起きる、というところはシンプルにしている。
・男性目線の話から女性目線の話になっている。原作ではどんなタイプの男性が選ばれるのか、体育会系より文化系の方が婿としてよいよね、と、父が娘に結婚してほしい男性のタイプの話になっており、かつヒロインが読書好きで父親を慕うという、中年男性のおっさんホイホイな内容だが、今回はヒロインのベルの過去のトラウマを回復する話が挿入されており、ビーストの内面を掘り下げる話が全くない。ターゲットが明らかに若年女性になっている。
・城の道具にされてしまった執事たちが不幸かというと、そうでもなく、むしろ映画で一番盛り上がるシーンは彼らが食器やランプの姿のまま自由に歌っているところで、姿がどうであれ人間は自由である、というところを強調して描写している。サブキャラが黒人なのも政治風刺だし、人間ではない姿で自由に暮らしているのはズートピアとかもそうでしょ?というメタメッセージを個人的には感じた。むしろ誰がビーストを愛してくれるのか、愛してくれないと元の姿に戻れない、だから恋愛しないといけない、というロマンティックラブイデオロギーに縛られている王子の方が不幸なのでは、という
皮肉を描いているようにも見えるのが凄い。

原作もそうだけど、改めて気づいたのは、王子、ビーストには、個人名が与えられていない。
あくまで王子、ビーストというのは、「記号」である、と。
その記号的存在である王子は、その記号に寄ってくる女性を相手にしなければならない、それは、良い女と結ばれてリア充だね、爆破しろ、という祝福なのか、そのイデオロギーに縛られているが故に呪いなのか、すごく考えさせられる構造にしたのが凄い。
このロマンティックラブイデオロギーが成立しえない現代だからこそ、王子という存在の呪いの部分にフォーカスするもよし、それ以外のパンピーの幸せとは何なのかにフォーカスするもよしという話。
ちなみにガストンの相棒は、ガストンを説得してガストンとホモソーシャルな関係を続けられたら皆ハッピーになれたし、ガストンは一回ベルと結婚してみて価値観合わないな、と離婚すると本当の自由が手に入る、というのが現代的リベラルの発想で、前者はアニメで死ぬほど描かれているから、後者を描くとこまで行けたら本当にディズニーはリベラルとして現代の映像文化を無双するし、これは実写向けだと思う。
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