そーた

ワンダーウーマンのそーたのレビュー・感想・評価

ワンダーウーマン(2017年製作の映画)
3.9
ニュータイプのフェミニズム

「人は女に生まれるのではなく、女になるのだ」

サルトルの妻、ボーヴォワールは、
女性が生物学的に女として誕生し、
そして社会的に女性へと変貌していくというこの二段階に渡る過程を批判的な意味合いを存分に込め、「第二の性」という言葉で表現しました。

その捉え方がフェミニズム思想の先駆けとなるわけです。

ただ、時代が過ぎ行き、女性としてのあり方も昔とは変わりつつあるように思えてならない現代。

DCコミック原作ものとしては空前のヒット作となった今作は、
なんだか時代が産み出したニュータイプのフェミニズム論のように感じてしまいます。

アメコミ風に「第二の性」を前向きに拡大解釈し、圧倒される作画であたかもエンタメを装おってみせた野心作。

アメコミ初の女性監督がみせる、
新しいアメコミの誕生です。

人類が第一次世界大戦を経験する最中、人間界から断絶した楽園で逞しく成長したアマゾン族の王女ダイアナは、突如、外の世界の存在を知ることになる···

アクションのクオリティーに異論を挟む余地はなく、安心して見ていられるのが、やはりメイド·イン·ハリウッド。

巧みにスローモーションを多用し、
超人的な動きをスタイリッシュに観客の目に繋ぎ止める手法は、
どのアメコミ映画よりも洗練されていた感がありました。

特に、市街地での戦闘シーン。

ダイアナが縦横無尽に敵を撃破する様は圧巻の一言。

ダイアナを演じるガル・ガドットという新たな才能を手に入れたハリウッドが彼女の身体能力を今後どう生かしていくのかが楽しみでしかたありません。

そのガル・ガドットに託された女性としての決意。

アマゾン族の秘島で"女"として生まれ育ち、アメリカ陸軍パイロットスティーブ・トレバーとの出会いを通して外の世界を知りより"女性"として成長していくその過程こそが、まさにボーヴォワールが拒絶するもの。

そして、あのジェームズ・キャメロンも今作を男社会の中で作られた女性像を描いたものに過ぎないと批判してしまいます。

T2でサラ・コナーという強い女性像を打ち出したキャメロン監督はもしかすればボーヴォワールの言う、
「第二の性」という考え方そのものを批判したかったのかもしれません。

ただ、監督のパティ・ジェンキンスは「あなたは女じゃないでしょ。」と巨匠の叱咤に対し至極うまい切り返しをする。

その返しに本質があるようで、
ジェームズ・キャメロンがどんなに強い女性像を打ち出しても、それはやはり男性目線で産み出されたものに過ぎません。

むしろ、男性社会という言葉自体にさほどの意味はなく、
女性にとっては取るに足らない言葉遊び。

第一次大戦の過程で実現した女性の社会的地位向上という歴史的事実を、
ダイアナの活躍という形でシンボル化しているようにも感じるけれど、
だからといって女性がいままで自立していなかったのかといえば、それは別問題。

議会で意見するダイアナも、
ソフトクリームを食べて感激するダイアナも、
トレバーの愛に応えるダイアナも、
そして、
戦地で超人的な活躍を見せるダイアナも、
全ては皆、同じダイアナ。

女性の多面性を理解出来ない男性には、表面的な描写だけで本作を評価してしまうのかもしれません。

かくいう僕も、女性のそんな面に戸惑う事も多く、偉そうに言えないのですが···

ガル・ガドットに託された女性像とは、
様々な顔を持ちながらも、
自分自身で生き方を選択できるという柔軟な強さを持った女性。

ボーヴォワールの思想をあえて前向きに捉える事で、
従来の女性像に対するアンチテーゼを提示しているのかもしれません。

そういう意味でアメコミを下地にしたことが大変に意義深い気がします。

1000ページもの膨大な文字の羅列でもって女性の扱いに疑問を呈するというよりも、二時間強の尺で女性像を肯定的に捉え提示する方が遥かに影響力がありそうに思えます。

そして、忘れてはいけないのが、ダイアナは超人だということ。

映画そのものの表現を丸々鵜呑みにはできないよという中立性を保った注意喚起の方法には、エンタメ性を存分に利用したアメコミ特有の荒唐無稽さが良い塩梅。

ヴォーボワール思想とは相容れないであろう本作を、僕らがどのように受け取るかは醍醐味であるし、
男女のあり方に対しての反骨精神を試されているようにも感じてしまいました。

僕の見方は恐らく楽天的で都合良い解釈なんだろう。
そして、ヴォーボワールにとって、格好の攻撃対象なんだろうな。

でも、男は男で大変なの。
それも分かってほしい···
そーた

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