青雨

ある天文学者の恋文の青雨のレビュー・感想・評価

ある天文学者の恋文(2016年製作の映画)
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この映画に限らず、こうした映画を映画として受けとる際に、社会的な道徳観のいっさいは無効であることが、間違いなく最低条件になるだろうし、それが最低条件であることを無条件に受け入れられない感覚は、おそらく映画に限らず、あらゆる表現と本質的には無縁だろうと思う。

これはとても程度の低いことを言っており、その程度の低さゆえに軽視することはたやすいものの、意外に絡めとられてしまうことが多いように思う。

映画とは何かという命題に、いつでも僕たちは試されているのではないか。そして、この 映画に描かれる愛の姿もまた、2人の主人公それぞれを試していると言ってみることもできる。

若い女エイミー(オルガ・キュリレンコ)と、老いた男エドワード(ジェレミー・アイアンズ)。大学院生と教授との不倫関係で結ばれた2人が、それぞれに求めた愛とは何だったのか。

おそらく、こうした愛の経路が、無償性を通過することはあり得ず、あり得ないことを深く知っていることこそが、逆説的に、僕たちそれぞれの倫理の深さを測る目安になっているようにも思う。この関係に美しさなどあるはずもなく、あるとすれば愚かさの先に浮かぶ真実の姿でしかない。

そして彼女は、教授の用意した離島の別荘へと向かい、ボートのうえで波に揺られる。彼は彼女を揺らし、彼女は彼に揺らされる。

ある程度の年齢になれば、若い女性の心がどのようなものであるかなど、彼女たちがそれぞれに抱える切実さを裏切るように(むしろだからこそとも言える)、典型的なものにならざるを得ない。 映画はそうした事情について、たぶん監督の年齢が彼自身に告げるように、僕たちにも静かに告げている。

人の心がもつロマンの宿命を『 ニュー・シネマ・パラダイス』(1988年)という作品で、かつて圧倒的に描いてみせた男。彼が本作に描いてみせたのは、もしかすると1つの諦観だったかもしれない。しかし、その諦観のまなざしの先に、もしも1つの真実が像を結ぶとするなら。

僕にはそんなふうに思えてならなかった。本作に描かれた静けさや情景や葛藤は、愛やロマンなどではなく、むしろ愛やロマンへの1つの挫折の姿だった。けれど、この挫折に真実の姿が浮かんでいるなら、僕たちの心もまた、エイミーと同じ波に揺らされることになる。

揺らされることそれ自身に、生きることの何かが宿っているなら。

★イタリア
青雨

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