塩故障

軽蔑の塩故障のネタバレレビュー・内容・結末

軽蔑(1963年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

 ゴダールにしてはストーリーが分かりやすい物語映画。作中のリュミエールの言葉を敢えて引用し(「"物語映画に未来はない"云々」)、逆説的に物語映画の可能性を示そうとした一作である、とも取れるかもしれない。それに加えて、本作は敢えてして、色々な"タブー"を犯す作品でもあった。たとえば、画角から登場人物が切れてしまっているカットであったり、「"チェーホフの銃" 理論(発射されない銃は作品中に登場させるべきではない、ひいては作中において何らかのアクションをも引き起こさない要素は登場させるべきではない)」の違反。敢えてして行われる"チェーホフの銃"への反駁は、作中において、主人公の葛藤や宙ブラリン感覚を効果的に描述することに大きく寄与し、その演出(もといストーリー展開)は大変成功していると感じたのだが、その一方で、人が切れているカットの意図はというと、あまり上手く掴めなかった。ゴダールほどの巨匠がやっているのだから、何かしら意図はあるのだろうけれども。
 実のところ、中盤くらいまではそんなに面白い作品だとは思わなかったのだが、やはり終盤の別荘でのシーン群。いやぁ、どうしても、こんなにか、美しい。ゴダールの"そこにあるものを活かす"能力が十全に発揮されているなぁ、と感じた。
 それと、やっぱり、カメラワークの緻密な計算。序盤、黄色い服を着たヒロインが主人公と並んで歩いてゆくと、赤・青・白(だったかな? 本当は良くないのだけれども、急いで観たのでそこら辺の記憶が茫漠としている。今この感想文も、アルバイトのために渋谷駅へと向かう山手線の車内にて書いている。飽くなき探究心と勁悍な神経を持った中学生らしき男児が、私のスマートフォン画面を除き見ようと、熱心に首を伸ばしている)の車たちが、フレーム・イン・フレームのなか、そこに等間隔で配置されている。こういうような、"どういうふうにカメラを動かそう"、"どこにカメラを置こう"というセンスが卓抜していると言わざるを得ないなぁ。
 本作はゴダールの監督作品の中では、比較的に、長尺の作品だった。だからこそ、物語を精緻に、かつ丁寧に描くことが出来たのだろうし、それに本作はあまり、所謂ゴダールらしい"変な演出"が少なかったように思われる(他の60年代のゴダール監督作と比べて、明らかに少ない。勿論、私の勉強不足かもしれないが)。それはやっぱり、ゴダールが映像の技巧というよりも、物語の描述に注力した結果であるだろう。そういう点からも、やはり、"物語映画に未来はない"というリュミエールの言葉への批判的応答、もとい新たな映画の歴史を担う監督としての回答を本作に仮託しているのだろう。
 良い映画だった、満足なのよ。
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