おみの

二重生活のおみののネタバレレビュー・内容・結末

二重生活(2016年製作の映画)
4.1

このレビューはネタバレを含みます

「私があなたにとって何であったのか」、私たちは永遠に知らない。
でも「私があなたに対してどうあるべきか」に関しては、私たちは常に、とりあえずの無難な解を共有している。
それを意識するから、石坂の不倫は秘密の体をなすし、篠原は雇ってでも妻を伴って母を見舞う。
夫として父として、子として。どうあるべきか。
その「重荷」が地上をひどく息苦しいものにすることもあれば、「重荷」がその身をどうにか地上に押し留めていることもある。
母は死んだ、修論も採点した、地上に留まる「重荷」を失くした篠原は死ぬことにした。
「生きるのがいいかな、死ぬのがいいかな」、妻役のあの人のことがよぎるけれど「それは別の問題だ」。
あの人にとって自分が何であったかは、篠原は永遠に知らない。あの人に対して自分がどうあるべきか、その「べき」の及ぶ関係にもない。契約は終わった。あの人は篠原の「重荷」にはならない。

生きることそのものの意味なんて、たぶん別に人のそれもクラゲのそれも変わらない。クラゲが生きてるのは人を癒すためではないだろうけれど、そんなことは水族館に来る人にとってはどうでもいい。人がそう思うならそう、人にとってクラゲは癒し。人にどう思われてもクラゲは生きる。
でも人は、何故か、意味がわからないと無理。だから生きる意味を創る。結婚やら仕事やらして、二重三重に服を着て、二重三重の生活圏を持つ。
創ったものには綻びも生じるし、めんどくさくてしょうがないけれど、やめない。これをしないとやっていられない、生きていられない。

卓也が見ていた珠は、二重三重のその下の、何もまとわない「寝顔」であったけれど。
意味の拘束がないからこそ、何もまとわず、なんとなく一緒にいられた。なんとなくあったものは、なんとなくで終わる、終わってしまう、終わることができる。互いが互いにとって何であったか、永遠に知らないまま。

そして尾行が映画鑑賞と近似という話なら。
そらいろいろぐさぐさ刺さる。自分で何も経験しないで、頭の中でだけ物事をこねくりまわす、勝手に利己的に。けどもう最後の麦ちゃんの神々しさ…女神感ひどかった…すがらせてほしい、まだまだ映画見たい……
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