ドラミネーター

猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)のドラミネーターのネタバレレビュー・内容・結末

2.0

このレビューはネタバレを含みます

〈ノヴァという存在は必要か?
          ノヴァが謎すぎる〉

・父親?殺されたにも関わらず何の抵抗もなくエイプに懐くのなぜ?

・モーリスに「私はエイプ?」と尋ねる意味がわからない。どっからどう見てもノヴァは人間だし、ノヴァはこれまで「私って猿かな?」って思ったことがあるのか? 突然に「私はエイプ?」と聞いた意味がわからなすぎる。

・ルカ(味方のゴリラ)が死ぬシーンにて、ノヴァが泣きながらルカのくれた薔薇をルカに差す感動的(にしたかったであろう)なシーンがあるが、あれに感情移入できるわけがない。人間に仲間をたくさん殺されたルカが唐突に(それまで全くノヴァとのやりとりが描かれていない)ノヴァに薔薇をプレゼントし、その5分後ぐらいにはルカが死に、ノヴァが悲しみ、薔薇を差す。なんの情緒もない。「あ、そうや! ルカがノヴァにバラをあげて、その後でルカが死んで、その時にノヴァが悲しみながら薔薇を差したら感動するやろ!」というまるで中学生の文化祭で披露した自作映画のような浅はかな展開をまさかこれだけ大きな映画でしてしまうとは。
加えて、ルカが死ぬに際して「悲しむ仲間」の中心、主体としてノヴァに焦点を当てるのも理解しかねる。どう考えてもこれまで苦楽を共にしてきたシーザー、モーリス、ロケットの方が悲しいにきまっているが、監督はどうしてもノヴァに悲しんでほしかったらしい。


〈シーザーの魅力がなくなった〉

・シーザーやモーリスが「コバの気持ちがわからない」と言っていたが、納得できない。実験、虐待、動物園、人間からその命を弄ぶような扱いを受けてきたエイプが、コバの気持ちがわからないわけがない。「創世記」「新世紀」のシーザーは、決してコバのことを理解できていないのではなく、憎悪を理解した上で、それを認めず平和的な道を選んでいたはず。本作ではまるでコバが人類への憎しみを募らせた狂いエイプのように描かれていたが不服でしかない。人類への憎しみを募らせていないエイプなどいるのだろうか。コバはエイプが抱く人類への憎悪、憤怒、反抗を最も体現してたはず。そういう意味では、彼は間違いなくエイプのもう1人のリーダーだった。だからこそ、「新世紀」ではシーザーとコバの二派にエイプが割れたはず(コバが怖かったから従っていたという者もいるだろうが、それもリーダーであることには変わりないだろう)。

・上記したコバへの無理解も含め、本作のシーザーは「創世記」で見せた(魅せた)カリスマ性も全く感じられない。人類との戦争を好まないのは、ウィルとの間に愛着を築いていたシーザーの紛れようのないアイデンティティであるが、戦争が始まって仲間のエイプが大量殺戮されているにも関わらず、敵兵を生きて帰すなんていうのは甘いどころの話ではなく愚の骨頂である。そんなリーダーに誰がついていくというのだろうか。そして、「創世記」「新世紀」で観てきたシーザーはそんな奴ではなかったはずだ。



【この映画は
  「猿の惑星」である意味があるのか?】

〈"シーザーvs 大佐"
   というはっきりしすぎている構図〉
(しかもポッと出の大佐。誰やねん)

・本作はシーザーvs大佐というはっきりしすぎた構図が最悪である。「猿の惑星」はスペクタクルな戦争を描いてきたわけではない。「種の存続」という、我々が普段全く意識しない危機を人類に突きつけてきた。ある意味「ごく普通」のことである自然の摂理として弱い種が絶滅していくという事実を、「ただその順番が人間に来ただけですよ」と言わんばかりの無常感をもって描いてきた。この監督がそういった魅力を全く感じておらず、ただの「アクション映画」「戦争映画」的に捉えているとしか思えない。でなければこんな作品はつくれない。
音楽も感情を導引しすぎており、無常感や諦念を感じることもできないただのありふれたエンタメの1つでしかない。
所々でちょっとした笑いを取ろうとするのもいらなすぎる。


〈その設定でええのん?〉

・「人間が少しずつ言葉を失っていく」という設定自体は、好きだ。「どの種が地球上の生物の中で言葉を操り、文明を生み出し、社会を築くか」という点において、その地位は1つの種にしか認められないという、この世のマザーボードとでも言うべき根源的な価値観、設定があるのは論理的な「理解」や「納得」を超えた「悟り」の域であり、「猿の惑星」の世界観によく合っている。本来であれば、頂点に君臨する種が人間ではなくなったことによって、世代を経るごとに徐々に言葉を失うという遺伝的退化が最も妥当なように思えるが、本作では突然にに伝染病によってそれがもたらされる。難しいことはなしにして、単純に「え? 言葉を失う病気って何?」と思う。前作までの「共存するかーどちらかの絶滅か」という思想の対立の流れもフル無視しており、大佐は「人類が喋れなくなるウイルスをばら撒くから、人間が人間ではなくなるから」という理由でエイプも人間も殺そうとしている。もはやこの映画は「猿の惑星」である必要があるのだろうか。これほど軽いノリ、浅い設定で伝染病設定を用いるのはゾンビウイルス映画でやってくれ。

・猿が奴隷って、もはや猿で在る意味がない。人間vs人間のやることだ。「人類」「エイプ」という種の存続がかかっているという次元の戦いで描くことではない。前作までは敵対する種を根絶やしにする勢いで殺すような世界観だと思っていたのだが。
エイプがやたらと人間に奇襲されるのも納得できない。どう考えても(こないだまで)野生のエイプの方が五感も運動能力も優れているだろうし、人間に奇襲されることなんてそう簡単には起きまい。本作は圧倒的に人間>エイプのパワー関係で描かれていたが、そもそもこの感覚に納得できようがない。前作、前々作はむしろその逆だった。

・本作は決して1本の作品として「面白くない映画」というわけではないが、猿の惑星ファンとしては、ましてこのリブートシリーズに好感を抱いていた私にとっては受け入れ難いものであった。



〈愚痴〉

・シーザー息子何人おるん。誰が誰かよーわからん。

・この監督間の話抜けすぎ。これほんまに前作の次の作品? 間1.2本飛ばして観てるみたい。