ドラミネーター

システム・クラッシャー/システム・クラッシャー 家に帰りたいのドラミネーターのネタバレレビュー・内容・結末

4.0

このレビューはネタバレを含みます

〈支援者の葛藤〉

 ベニーにとって1番いい状態、それは母親と安全・安心な家に住まうことである。しかし、ずっと「母親と暮らせるかも」という期待をベニーに与え続けながら、待てど暮らせど一緒に暮らせそうにない本作の状態であるならば、ベニーの支援者はもう母親に期待するのはやめて、新たに頑健なアタッチメントを形成できる環境の提供に尽力した方がよい気がする。まあ、システム・クラッシャー(この呼び方はいかがなものかと思うが)と題される彼女は方々の施設から受け入れ拒否されているためにそれが非常に難しい問題としてあるのだが。

 ミヒャが自宅にベニーを上げたことについては、やはり上げるべきではなかったと言える。自分の心をはじめとして環境を整えた上で一時的に自宅に迎えるのであればまだしも、ベニーの言いなりになる形で上げてしまったのでは本作のような問題が出て必ず出てくるだろう。しかし、時として「立場」や「ルール」を破って、1人の人間として「心のままに」関わってくれる大人によって、心のままに関わってもらえたという経験によって、救われる人(子ども)がいるのもまた事実であろう。支援者が必ず経験するであろうそういった葛藤を、本作は見事に描出した。いち支援者としては、「ベニーが〇〇してきたらどうするか」ということを事前に考え、その対策も考えておきたい。またそういった対策をどれだけ考えていても全く想定し得ない要求、事態が起こるのが常であるため、「困った時にひとまずどのように時間を稼ぐか」や「ベニーにどういった伝え方をするか」といったことを考えておきたい。


〈赤ちゃんがベニーの顔に触れてもパニック発作がでなかったのはなぜか〉

 ミヒャの赤ちゃんがベニーの顔に触れてもベニーがパニックにならなかったのなぜだろうか。精神分析家気取りで「ひとのこころ」を合理的に解釈しようとするのはナンセンスかもしれないが、一つ思い至ったのはベニーにとって赤ちゃんが「絶対的に自分より弱い存在=自分傷つけない存在」であったということである。暴力をふるう父親だけでなく、暴言を吐く大人、排除したいという気持ちが感じられる大人、暴力・暴言を向けてくる子どもなど、ベニーにとって「自分を傷つける存在」はあまりに多すぎる。ソーシャルワーカーのバファネさんをはじめ、ベニーを想い、ベニーが心を許している大人がいることも事実ではあるが、そういった大人もベニー自身がコントロールできないという意味では完全に「自分を傷つけない存在」にはなり得ない。そういった意味で、ミヒャの赤ちゃんはベニーにとって最も「安全で、安心できる、絶対に自分を傷つけることのない存在」なのである。たとえミヒャやバファネさんのベニーによるタッチが愛情に満ちた「触れる」であったとしても、そこには「緊張をほぐしてあげよう」とか「愛情を感じさせてあげよう」とかいった意図が孕んでいる。それは支援者として当然のことであり、事実それによってベニーの心が落ち着くこともあるだろうが、ベニーにとって「知り得ない意図が孕んだ行為」という心理的観点において、やはりここでもベニーによるコントロールはできない。対する赤ちゃんによるベニーの顔への接触には何の意図もなく、ベニーの心理的安全性・安心性もやはり確保されるのであろう。
 他者への安全感・安心感・信頼感といった感覚が、自身の「操作性」に大きな影響を受けていることこそが父親からの被虐待経験による痛ましい傷跡である。


〈映画としての本作〉

 ベニーは空港の中を逃げ回り、自由を謳歌するかのような愛らしい笑顔を見せて本作は終える。監督はこの映画で、このラストで、何を伝えたかったのだろうか。果たして自分はそれを掴みきれたのか。本作の鑑賞にあたっては支援者としての立場が強かったため、いち映画好きとして「何を、どのように描き、伝えようとしたのか」という「映画としての本作」を捉えきれなかった感がある。