白眉ちゃん

あの日のように抱きしめての白眉ちゃんのレビュー・感想・評価

あの日のように抱きしめて(2014年製作の映画)
3.5
『愛と尊厳が火花のように瞬いて』

 大戦後、強制収容所からユダヤ人女性のネリーが奇跡的な生還を果たす。彼女はナチス兵士の暴行によって顔にひどい銃傷を負い、かつての面影はすっかりなくなっていた。しかし、生きることに絶望した時は愛する夫ジョニーを想って何とか精神を保ち、そうして生き延びたのだった。顔面の修復手術を施した彼女は酒場『フェニックス』で最愛の夫の姿を見つける。彼の名を呼び、涙を浮かべながら駆け寄るも、ジョニーは自らの妻に気づくことはなかった…。

 収容所での凄惨な体験を尋ねられたらと危惧するネリーに対して、「でも聞かないよ。聞くはずがない」と断言するジョニー。彼が頑なに”妻は死んだ”と信じる背景には、裏切った罪悪感と同時に、虐殺という想像を絶する悲劇の被害者として心にフタをしてしまっているからだろう。友人たちも収容所でのことを尋ねない、尋ねられない。ネリーもまた、彼女が元通りの顔を強く望むように、すべてなかったことを望んでいる。こうして両者が悲劇から目を背けた結果、奇妙な偽装夫婦が生まれる。弁護士レネが自死を選んでしまったように、迫害の事実と向き合い続けることは難しい。ネリーが正体を打ち明けられず、ジョニーが妻に気がつかない、そんなすれ違いが続くほどにナチスの迫害がユダヤ人たちの心に齎した影の濃さが明らかとなる。

 虐殺によって歪んでしまった精神を夫婦の愛の儚いすれ違いとして描くことは如何にもクリスティアン・ペッツォルト監督らしいものの、迫害によって失われたネリーの尊厳が、夫の裏切りの事実を認めることで回復するというのはやや話がボヤけてしまっている気がする。鮮やかな『Speak Low』によるラストシーンも夫に事実を告げて去っていくのは投げっぱなしな印象がある。これが恋人関係ならまだしも、夫婦関係の設定ならば、両者が事実(夫が裏切ったこと、妻が生きていること)を知った上で現実と向き合い、この先をどう選択するかまでを描くべきではないだろうか。ここら辺は映画の尺などの都合上、監督が自らの得意とする愛に揺れる女心に物語の焦点を絞ったと考えるのが妥当である。希釈された部分が気になったのでユベール・モンティエの原作『帰らざる肉体』を読んでみると、女の尊厳をあぶり出す重苦しい設定や夫婦が事実を知ってから再構築を選ぶまでのドラマが存在していることがわかった。

 まずネリー(原作では「エリザベート」)が顔面に傷を負う経緯について映画ではかなりオブラートに包まれているが、収容所で生き残る為にドイツ兵の慰安婦をさせられ、そこで悪い病気を移され容貌が崩れたとある。女としての尊厳をひどく傷つけるこの非道な設定をボカすことで映画は儚いメロドラマの体裁が保たれている。また主要なキャラクターとしてエリザベートの連れ子が登場し、妻不在の間にスタン(原作名。ジョニーのこと)と肉体関係を持つこととなる。これにより汚辱にまみれた妻と姿の似通う純潔の義娘との三角関係が形成され、スタンの迫害からの現実逃避とエリザベートの女としての尊厳(或いは妻としての尊厳)と夫婦の再構築への障害が具体性を持って描かれる。原作に『Speak Low』のくだりはなく、チェスの対局によって夫は妻に気がつく。チェスの攻防と共に両者の主張が交互に指し示され、真実が明るみになる。真実を出し合った二人は再構築を目指すが"愛がトラウマに勝つ"というような安直な結末には落ち着かない。娘が自死を選び、事実を選んでも荊の道が続くこととなるのだ。

 事実と向き合おうとも一度歪んだ精神や生活は元には戻らない。苦しみは続いていくという重々しいエンドである。ペッツォルトの映画は前提の情報をボカしたり、感情や思考を明確に観客に提示しないことで彼の作品らしい幻影性を作り出している。しかし、揺れる女心に終始するあまり、この物語の基幹にあたる「虐殺のトラウマが認知バイアスに大きな歪みを生じさせ、夫婦が理解し合えない」設定が厳格にナチスを糾弾するところまでには到達していないのではないだろうか。
白眉ちゃん

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