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グランドフィナーレのotomisanのレビュー・感想・評価

グランドフィナーレ(2015年製作の映画)
4.2
 監督は"Youth"と告げるが配給元は"グランドフィナーレ"と訂正する。セレブ爺ズ in 大金持ち御用達高級リゾート夏休みで「若さ」もねぇもんだと若い奴らが毒づくのが聞こえるようなタイトルに笑うべきか。
 確かにこの施設の高級そうな事、斯界の頂上で働いて稼いでこなければ叶うまい。しかし、どこの山奥か知らないがひと夏過ごしても放っておかれるくらい暇なのもその通り。御大に今更声を掛けるとすれば活きがいいからではなくて、その名誉に釣り合う舞台からの声掛かり、もしくはそうありたい舞台からのラブコール。いや名誉貸しそれだけでも大層な事なんだが。
 今は無気力爺、はじめは「生意気で俗悪」だった大音楽家M.ケインとまだ現役「遺言」創作中の映画大監督H.カイテルのここでのこの夏は、ついにこの「若さ」について、もしくは老いて衰えてられない事を問う事件となる。その周囲でも何かと事情をかこつ面々が、着ぐるみヒーローから恐怖のヒトラー経由で12歳の息子に「父親にはなれない」ことを打ち明ける「父親」になる事に開眼する俳優であったり、左利きバイオリニストのたまごが孵るは肘の高さ如何と見つけたりであったり、左利きビヤ樽氏の天才リフティング技でもゴールキックは夢のなかであったり、愛が壊れた女(実は音楽家の秘書で娘、監督の義理の娘、壊した息子は母親似、理由は床上手)の「床上手」アピールでなぜか登山家とサスペンド・ラブ成就?だったり、あれこれあっても、まだ若いみんなは先に進んでゆく。残された昼行燈音楽家と「遺言」に燃える監督の生死は互いにも若い者たちとも関係なく、しかし劇的に展開する。
 実は現役を誇示する監督の半世紀以上も馴染みのブレンダが告げる、生きるための出演拒否宣告は「遺言」制作の頓挫を招き、監督のこれが最後の前進だとベランダの外へ踏み出すのを音楽家は止める暇もない。多分「若くない」とはこんな風に思い知らされるのだろう。
 実際、監督を押し止められたかどうかは問題ではない。それを目の当たりにし、掛けられたであろう言葉を心のうちになぞり、手を差し延べられたろう事を思い返せば、現にそうできなかった心と体の衰えが恨めしい。人間案外怒りや悔やみでこそ力が湧いたりする。それが芳しい事かはさておき、また医者が告げる「馬のように元気」な事がレトリックであるにせよ、友人をむざむざ逝かせた二の轍、今度は誰を?おそらく自分自身こそ留めておけなくなるだろう途なぞどうして踏みたかろう。
 だから、違うと考えてきた事にも踏み切るし、苦手な事にも踏み出すのだ。散々芸の肥やしのように遊んできては妻子を泣かせたワル爺だが、これが最後の名誉出演のつもりで陛下天覧の棒振りに立つと意図するわけだ。そのためなら、どこまで本当か「シンプル・ソング」は妻の独唱でしか振らない事も取り下げるし、その「説得」のため妻の居るベネチアにだって出かけるし、既に我を失った妻とも(たぶん)向き合うし、するのだ。
 芸も術も消え果たような昼の行灯と思いきや、牧場の隅で手を挙げればカウベルが響き、指で差せば小鳥がさえずり牛はモーと鳴く。おとぎ話の爺さんが、通り過ぎる若者たちの背中を見ながら、親友の墓碑を後にして、口幅ったいけれどトラウマ的家庭に詫びを入れても復活を遂げる御前演奏。なんだ、これが到達点じゃないかと到達してみてやっと分かったような耄碌映画風だが、そんな行方知らず的展開も面白いような、齢なんてとってみなけりゃあ分からんのさとぼやきが聞こえてきそうな塩梅である。
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