きゃんちょめ

この世界の片隅にのきゃんちょめのレビュー・感想・評価

この世界の片隅に(2016年製作の映画)
5.0
【批評の更新】

昔の人は強かったわけではない。昔の人は弱かった。昔の人は個人ではなかった。個人などいなかった。弱いから共に住み着くことで強くなった。"場に埋め込まれた存在"だった。なぜこういう血縁を重視した人々(ユダヤ人や体育会系や中国系)がグローバル資本主義に強いのだろうか。失敗したら血縁空間に戻って休憩できるからだ。そして再出撃することができる。

創作物(映画、絵画、漫画、フィクション)は、悲しい現実に勝つことができる。焼夷弾の雨の中で、すずちゃんは『もしここに絵の具があったらな』と考えている。お腹が空いたりんちゃんは、絵に描いたスイカやキャラメルで楽しみを得ていた。創作物には、確かに、現実のレイヤーをもうひとつ上書きして、それを中心にしてコミュニティを修復するような、そういう力能があることを忘れるべきでない。映画は、ただの嘘っぱちでも絵空事でもなく、現実に力を及ぼす。カルト映画とかもそうだ。

"燃える焼夷弾をぼんやりと眺めるすずちゃんが、バケツを持って、それでも火を消すことを決意するあのシーン"について考えたい。

この映画を観る前の俺なら、あそこで、あのまま、家と共に燃えるんじゃないだろうか。彼女はすべてを無くした。そして、すべてがない中で、空想の世界に生きるための術すらもなくした。恋人も無くした。俺ならそのまま燃えてしまうんじゃないだろうか。俺が生きる世界で、もしフィクション(映画)すら奪われたら、俺はもう、焼夷弾をぼんやりと見つめ続けるのではないか。でもすずちゃんにはまだ、家族がいたのである。

なぜ、すずちゃんはバケツを持って、火に向かっていくことを決意できたのか。あんなに"こまい"すずちゃんが、お尻に火がついても、力強く消火へと向かっていった。真っ黒で、虚ろな、燃える焼夷弾を見つめる悲しい眼差しに、ふと、希望の光がともる瞬間だ。あれは、決してヤケクソではない。あまりの絶望に、開き直ったわけでもない。

深い絶望から、それでも再び立ち上がる精神の力である。それはもちろんすずちゃんの力ではない。そもそも個人的な精神などというものは存在しない。

では精神とは何か。顔の見える他者との間で生じる緊張感のことだ。緊張感があれば、反応は遅れる。すぐに答えを出さずに、答えについての答えを出し、反応について反応を出す。そのリフレインをしているうちに、どんどん会話は遅れていく。会話は流暢でなくなっていく。その遅れこそが、いまや精神や心と呼ばれているものの正体なのだ。すずちゃんはゆっくりしゃべりいつも遅れているが、しかしそれは自分が無視できない人々との縁を忘れないからではないのか。死のうとする自分にストップをかけるのが心である。そして心とは遅延(地縁)のことである。


場の力が彼女を、また、再出撃させたのだ。力強い存在であるためには、どうすればいいか。力強くなるのはダメだ。そうではなくて、力強いコミュニティの中にいればいい。そうすれば、最後に残った仲間のために、人はまた立ち上がることができる。人間は戦争には耐えられるが、孤独には耐えられない。

このシーンこそが、いまの日本を作ったのだ。すずちゃんも、けいこちゃんも、遊廓のりんちゃんも、すみちゃんも、元気だった。すみちゃんも、女子挺身隊に入った後、将校さんに恋をしていた。彼らはすべてを失った。それでもコミュニティだけは失われなかった。誰か他者に恋をすることを忘れなかった。どれだけ日本国なんていう国家システムや軍隊が、生活者たちのコントロールを離れて、勝手に暴走しても、他人に恋をする心だけは失われない。恋心は確固たる信頼に値するのだ。だから、元気だった。


すべてを失ってから、それによって初めて、絶望の先で到達される、清々しい日常空間の自覚があるのかもしれない。それがこの映画を観る意義だと私は感じた。

彼女たちは、配給の小魚や道端の草木で料理を作り、その工夫を楽しんでいた。原爆を投下された当日にすら、その日の下駄を作る仕事の中で彼女たちはユーモアを見出した。そのとき、いつも隣には、近しい人がいた。

なぜ下駄を作るための工夫が楽しいのだろうか。

ものづくりというのは、それ自体が、他者への配慮を前提としたコミュニティ的な運動だからだ。

パンドラの箱を開けると、あらゆる不幸がその箱の中から飛び出した。最後に、その箱の"片隅に"、こまい、こまい、希望が残った。
きゃんちょめ

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