エマワトソンの映画は「ハリーポッター」以外だと初めてだった。時折見せる表情にハーマイオニーを感じるが、うまいこと新入社員の役を演じていたと思う。今や、役者というより社会活動家のイメージが強いエマワトソンだが、この映画でもその片鱗を見ることができる。エマの綺麗な英語、クリーンで老若男女に好かれる感じは、まさしく指導者向きだろう。
繋がることで、本当の幸せが手に入るような事を言ってるが、そこは理解できない自分がいた。どちらかというと、繋がりはなくしていきたい方向だ。昔の友人、恋人とも会いたくないし、どうなっているかも興味もない。
繋がることで、データがつくられ、安心安全で快適な社会を作ることはできるかもしれない。データは偉大だ。ただ、それを使う権力者が現れたり、悪用する者もいる。そう、データは売れる。金になる。
アメリカでは、一般の人もテレビでの顔出しは普通だ。一方、日本は顔にモザイクをかけたり、下半身だけ映したりする。アメリカ人が見ると、何か悪いことでもしたのかと思うらしい。シェア好き、パーティー好きな社交性の強いアメリカ人と、シャイで警戒心強めな内向性の強い日本人との、国民性の違いもあるかもしれない。
現代をテーマとした映画で、中々考えさせられた。もう、現代社会を生きる上では、切り離せないSNSやAI。正しく自分らしく生きていく方法を迷ってしまう。過度にそれらを拒否して生きていくのにも、限界がある。上手に付き合って行きたいところだ。
攻撃してくる人たちがいるのも社会問題になっている。実際に会っていないことをいいことに、強気になって言いたいことを言いまくる人たちがいる。車に乗ると人が変わるのと同じだ。最近でいうと、KARAのハラちゃん、テラスハウスの花ちゃんが頭に浮かぶ。SNSに居場所を求めすぎるのは良くない。自分の存在をSNS以外で確かめられる場所を持っていると、SNSを冷静に使うことができるのではなかろうか。揺るがない自分がいるからこそ、相手とコミュニケーションが取れる感じ。
自分をもってない人が、社会に出るといろんな攻撃をもらう。その攻撃を受けて、自分を作っていく方法もあるが、ある程度は学生のうちに基盤をつくっておくのがいいと思う。昔の身近なコミュニティからの攻撃ではすまない。常に誰かに監視されているような社会に今はなってしまっている。何か間違ったことをして、それを誰かが撮ってSNSに投稿すれば、全世界から攻撃を受ける可能性もある。それは、私たちから自由を奪っているともいえる。何かするにしても、周りを気にしてしまう。こんな世界で生きていくためには、自分の安心できる場所をもっておきたいところである。