三好マサヒロ

私、君、彼、彼女の三好マサヒロのネタバレレビュー・内容・結末

私、君、彼、彼女(1974年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

前回アケルマンの作品『ジャンヌ・ディエルマン』を観てから、生活に変化があった。夕食をとるときは、いままでパソコンでyoutubeを観ていたのだが、それをやめた。夕食の時は夕食に集中する。そして味覚を感じる。それをするようになった。日々の感覚についてそれを感じることが大切だと学んだのである。

本作『私・あなた・彼・彼女』でも、その味覚や嗅覚などの表現が多用されている、と思った。本作は『ディエルマン』の一年前の作品である。二つの作品にある共通のアイデアを観て、監督の伝えたい本質のようなものを感じることができたように思った。

映画をひとつの部屋で撮る、というおもしろさ。ふつう、超退屈になるはずである。それの工夫として、「日を変える」というのがおもしろい。おそらく撮影は、日をまたいでいないだろう。同じ部屋、同じ角度のカメラ。画的には同じである。そこで、日を変える。これで、観るものに飽きさせない。一つの画に重なりを与えるのである。同じ「かな」であるが、違う「漢字」になるようなイメージである。

Youtubeにあがっていて、かつて流行ったことがあった、ルーティーンもののはしりのような気もする。そして、コロナ禍での、ステイホームというものを想起することができた。アケルマン監督の作品の評価が高まっているのは、表層的に観てもうなずけるのである。

しかし、youtubeのルーティーンとして、この映画をアップしたら、すぐにグーグル側が「バン」するであろう。Youtubeのルーティーンとは、当たり前であるが、見せることのできることしか映していないからである。見てさしさわりのないことしか映していない。ここまでなら映してよいだろうと、作者は判断する。その判断は、実は「作者の判断」ではない。それは、グーグルや視聴者にどう思われているか、という基準である。アケルマンの作品は、その判断をまったく監督がにぎっている。あたり前だが、それが「映画」ということであり、これは「映画」であるからである。

逆に言うと、Youtubeにうつせないところ、というところに、作者の本領がある、といえる。自室で裸のまま砂糖を食う女。女の手で自慰をする男。女と女の性行為。

それは感覚でいえば、最初に述べた、味覚や嗅覚のところである。とはいえ、それが「自慰的」に窒息しそうになっているのを書きながら付け加えたい。

最初部屋にいて、外にでる、そして愛人と和解する、というようにして、自我からの解放を描いた、といったふうに簡単に解釈することはできない、と私は思う。

部屋を出て移動する、長距離トラックの「居心地の悪さ」。爆音でなりつづけるエンジン音や、風呂に入らない男の匂いには、映像を通しても不快感を受け取てしまう。

別れた彼女と和解する、というのでもないだろう。言葉では何も言わず、ただセックスをしただけである。ただの動物的な「たわむれ」にすぎない。あの行為のあと、二人が和解して、将来的に有意義な暮らしを共同で営むことは、ないのではないだろうか。あの行為は、どこか、お互いに「身勝手」であるように見えた。ひとりひとりが、二人同時に、同じベッドで、「自慰」をしているだけではないだろうか。

そして最後は、あの部屋に戻ってきて、主人公は裸で砂糖を口に入れる日々を繰り返すことになるだろう。そのような窮屈さを感じさせた。これが24歳の「若さ」なのか、それとも監督の本質なのか、作品を辿って確かめていきたいと思う。
三好マサヒロ

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