まぬままおま

故郷の便り/家からの手紙のまぬままおまのレビュー・感想・評価

故郷の便り/家からの手紙(1977年製作の映画)
4.0
アケルマンは『街をぶっ飛ばせ』を完成させ、オーバーハウゼン国際短編映画祭で上映された後、ニューヨークへ発った(p.17 ☆1)。1971年、21歳のとき。映画監督としてキャリアが確立したわけでもなく、ニューヨークでの暮らしは「放浪者のような生活」(p.31)だったらしい。そんな彼女に宛てられた「家からの手紙」。いやそれは「母からの手紙」であり、家族の近況を告げると共に彼女を心配し、慰め、時には奔放さに苛立つ声だ。そんな私的な〈声〉をアケルマン自身が朗読し、ニューヨークの風景を映し出すのが本作である。

何気ない母の〈声〉。ブリュッセルの暮らしや父の仕事、親戚が結婚したという知らせ。家族の近況。反転して、ニューヨークの暮らしはどうなのか、何の仕事をしているのか、結婚はどうなのかという問いただし。毎週もしくは数日おきに送られてくる「母からの手紙」はきっと、彼女をうんざりさせたんだと思う。それが彼女のことを心配し不安に思い、愛しているからと分かれば分かるほど「返事を書きたくなくなる」。だからアケルマンはニューヨークに「逃避」しなければならなかったんだと推察する。母を愛しているからこそ距離を保つために。

そんな心境が映像表現で巧みに描かれている。数日ごとに送られる手紙たちは、朗読されることで時間的隔たりを縮減される。手紙の声はニューヨークの風景で映し出されるモノ、例えば電車によって「掻き消される」。

手紙は、宛先人がどのように読むかの自由が担保されている。いつ読んでもいい。どのように読んでもいい。読まなくてもいい。しかし手紙が物質的に存在している以上、宛先人に「読まなければいけない」という呪いもかけてしまう。

そしてその呪いは「母の愛」にも似ている。愛をいつ、どのように受け止めてもいい。なんなら受け止めなくてもいい。しかし母が現に存在している以上、「愛に向き合わなければならない」。

愛憎混じりの〈母〉への思い。その問題系は後の作品に引き継がれているし、それに対する冷徹な眼差しと応答がアケルマンの作家性だと思うのである。

ラストショットの船からのニューヨークの風景。母から逃れられず、ニューヨークを発たなければならないアケルマンはどこへ向かっていくのだろう。その行き先は、『ノー・ホーム・ムーヴィー』までみることができる私たちなら知っている。

☆1『シャンタル・アケルマン映画祭2023公式パンフレット』