まぬままおま

ドリーの冒険のまぬままおまのレビュー・感想・評価

ドリーの冒険(1908年製作の映画)
5.0
アメリカ物語映画の父と呼ばれるD.W.グリフィスのデビュー作。

ブルジョワの夫婦がジプシーの男から押し売りをされるが、断ることでトラブルになってしまう。ジプシーの男は腹いせに夫婦の娘のドリーを誘拐する。ドリーは樽に入れられるが、道中のアクシデントで川に流されてしまうが、「冒険」によって夫婦の元へ帰還する。

長谷(2016)によれば、この物語は「13のショット」で語られ、ショットはどれも1分尺ぐらいの「固定カメラで捉えられた全景ショット」である。(p.34)

私が確認した限りショットは以下の通りに説明できる。

ショット1 
ドリー一家が仲睦まじく自然の中を歩いている。ドリーは釣り竿を持っている。
ショット2 
ドリーと婦人は川辺を歩いており、釣りを始める。釣りをしているとジプシーの男が現れ、押し売りが始まる。婦人は断るが、男は腹いせに彼女の品を盗もうとしてトラブルになる。トラブルが起きると夫が現れ、ジプシーの男を撃退する。
ショット3 
ジプシーの男が住処に戻ってくる。妻に手当をされるが、男の怒りは収まらない。妻の制止を振り切って復讐に向かう。
ショット4 
ドリーらがバドミントンをして遊んでいると、夫がどこかに行きドリーが一人になる。その隙にジプシーの男がやってきてドリーを攫う。ドリーがいなくなっていることに夫婦らは気づき、動揺し、探しに行く。
ショット5 
ジプシーの男がドリーを担いで走り去っている。夫も探し回っている。
ショット6 
ジプシーの男が住処に戻り、ドリーを樽に詰める。夫も男の住処に着き、帆馬車などを捜査する。しかし発見できず、夫は去る。
ショット7 
ジプシーの夫妻が帆馬車で道を走り去る。
ショット8 
帆馬車が川を渡っていると樽が落っこちてしまう。
ショット9 
樽が川に流れている。
ショット10
樽が滝に落ちる。
ショット11
滝を後景に樽が川に流れる。
ショット12
樽が川に流れている。
ショット13
川辺。釣り人の近くに樽が流れてくる。竿で寄せて、樽を持ち上げようとするが、一人では持ち上がらない。夫がやってきて二人がかりで持ち上げると、中から音がする。樽を開けるとなかからドリーが現れて、無事ドリーは夫婦のもとに帰還する。

人物の説明描写や出来事、展開、さらなる展開と結末が最小限のショットで語られることに驚く。映画言語の基礎と文法のようだ。
驚きなのは、ショット6である。馬の不在によって「時間の流れ」が語られていることは、ある老人(好き)が言及したことではある。それも驚きだが、ジプシーの妻は最初ドリーを樽ではなく、帆馬車に隠そうとするアクションを行っていて、そのリアクションとして男はドリーを樽に詰めている。そのおかげでドリーの父が行う捜査の目をかいくぐることができるし、樽を捜さないことでサスペンスが導入される。この演出は巧みである。さらに男は樽をひとりで担いで帆馬車の後ろに積むわけでそれは、後のショット13で釣り人がひとりで持ち上げられないことと対称に描かれ、ジプシーの男の豪腕さも暗に示されているのである。

ショット13に言及すれば、これは明らかにカットが割られていて1ショット1カットではない。それは樽が川辺に持ち上げられることと樽を開けようとしてドリーが現れる間でカットが割られている。それが明らかなのはドリーを詰めた樽が川を流れるわけがないしー演出と物理の問題ー、むしろただ樽が流れるショットにおいて、その樽の中にドリーがいるように思わせ、「冒険」を行っているように劇として物語るのが本作の素晴らしさなのだし、端的に言えばトリックショットなのである。このように考えると本作は「13のショット」でありながら、そのショットは1カットではない。私が観賞したヴァージョンでは、他にもショット2やショット4である。ショット2ではジプシーの男が私物を盗もうとする前後、ショット4ではジプシーの男がドリーを攫おうとする前後である。ただそれはコマを削ったといったほうがいいのかは分からない。けれど一連の時間ー映画の時間とは何かの問いにもなりそうーにおけるショットではないことは明らかである。ではショット6がカットを割られているのかどうか分からなかったし、もし一連であればジプシーの男はドリーが詰まった樽を悠々自適に持ち上げたわけで、それはそれで驚きだ。

とにかく本作が凄いことは言うまでもない。そしてショットとは何かがよく分からなくなったので、ある老人(好き)が書いた『ショットとは何か』でも読むとしよう。

参考文献
長谷正人(2016)「第2章 映画というテクノロジー」長谷正人編『映像文化の社会学』有斐閣