このレビューはネタバレを含みます
前情報なしで見てメモしたもの/
すこしファンタジーですこし現実。2030年代あたりと思しき日本は放射能に汚染されていて、国民が順番に国外へ避難していくところです。
薄と枯れ草で黄土色に染まった秋の景色、なりやまない風の音、静かに終わりゆく生活。ここはどこだろう。あまり日本らしくない高原、でも囲む山々は日本らしい。ポツンと立つ洋風の一軒家。住むのは白人の女性と車イスに乗ったアンドロイド。無国籍の、不安定な、不思議な画面。どこか舞台っぽいと思ったら原作は平田オリザの舞台だった。
アンドロイドのリオナに、美的感覚と感情を教えたのはターニャ。リオナにはターニャがインストールされている。それを知ったとき、ターニャは「じゃあ私は自分自身と会話していたんだね」と寂しそうに言ったけど、アンドロイドとはいえリオナは「自分」とは別人格なのではないかな、価値観を同じに揃えたとしてもターニャとは違う回路を通して発話をなすのだから。初期設定で、ほかのだれか(開発者)によって優しさやコミュニケーションが組み込まれているんだから。
リオナがあまりに自分の心に寄り添ってくれてて、アンドロイドとはいえ自分を愛してくれる「他人」だと感じていたから、そんな彼女が(ある意味)「自分が創った」ものであったというのはショックだった、というのもわかる。でも、アンドロイドじゃなくて人でもそういうものじゃないかな。会話と交流を通して人が人をつくっていくよね。
リオナは最期までターニャのそばにいて、ターニャの命を超えてターニャを継続する。リオナの中に残されたターニャは竹の開花と巡り会う。
一方、ターニャの周りにいた生きていた方の人々。は、彼女の預かり知らぬ人生の記録と価値観と感情を持っていて、彼女の理解の外の決断を下し、去っていく。
彼らの決意を安易に観客に理解させぬ距離感が好きでした。ああ、きっとこういうことなんだよな、と想像できるようにはしてあるけど、説明しきらない。
自分を材料に作った救いは完璧だけど、どこか寂しいところがある。他者がもたらす救いは心あたたまる愛をくれるけど不安定だ。
カメラが遠い=人々の感情に近付いていかないので、淡々と、遠くから眺めることになる。誰かの心にぐっと入らないようになっている。唯一両親のビデオを見るシーンは幸せな風景に大分寄っていた。
ところで竹の花ってどんなん?と調べたけどなんか違わん?なんでそのビジュアルに??となったけど、やはりここはファンタジー世界なのだな。
寂しさのはてなむ国とさいわい住む国なら、私は前者へ行きたいです。
私たちはいつか"いかなきゃなんない"ようで、残される人々には"ごめんなさい"としか言えず、行った先ではきっときちんと好きなものを見つけて寂しくなくなるからねと伝えて、いかなきゃなんない、のですね。
それがさようならということのようです。