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アイリッシュマンのYMのネタバレレビュー・内容・結末

アイリッシュマン(2019年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

これは、弔辞である。これまであった、すべてのマフィア映画への。

マーティン・スコセッシ監督の最新作。Netflixが配信する映画。そしてなによりも、ロバート・デ・ニーロ/アル・パチーノ/ジョー・ペシの黄金トリオがみせる本作は、予想どおり、今年もっとも印象深いものとなった。

主人公は老人ホームで暮らすひとりのアイルランド系アメリカ人。その語りが、一本のロード・ムービーを導き、その旅路がまた、さらなる過去へといざなうという構造だ。戦後の冷戦たけなわ、ケネディ政権下のアメリカを舞台にした、裏社会のルールと任侠に生きる男たちの、友情と裏切り、栄枯盛衰の物語。ほんのちいさなボタンの掛けちがいから、どんづまりへと転げおちていく男たちの「生き方」、あるいは「生き様」を描く物語。それは無論、マフィア映画の王道そのものと言ってもいい。
 さらに、本作を特徴づけているのはスコセッシがもちいた最新技術で、老境にいたった俳優たちに映像加工を重ねて若いときの姿をも演じさせている点である。
それによって、30代40代をも演じるデ・ニーロやパチーノの姿は、かつての名作群のなかでの彼ら自身の姿を思いださせた(たとえば公聴会でのパチーノなんて、まさに『ゴッドファーザー PART II』のマイケル・コルレオーネが蘇ったかのようだった)。クラシックなスタイルの映画に、クラシックなスターが揃う。これほど喜ばしいことも、そうあるまい。

……それなのに、どことなく、なにかが不思議な映画である。
そう、どんなに最新技術を施していながらも、一方では俳優たちの"老い"を観客にあからさまに意識させるのである。小売店主を蹴り飛ばすシーンや、銃を二丁構えて撃ちまくるシーンなど、アクションシーンでの動きはあきらかにもっさりしているし、そもそも全編にわたって、じつは姿勢や歩き方などはずっと老人のそれである。隠しきれないのか、あるいは隠そうとしていないのか。その違和感が、全編を貫く。

「もう誰も生きのこっていない。話すべき時なんじゃないのか?」
刑事がそう促しても、友情とかつて捧げた忠誠を守るため、けっして口を割ることなく、神父とともに祈る老人がひとり佇む。そういえば、ここに至るまで、これほどまでに男だけの世界を描いた映画は、今日びめずらしい。主要な女性キャラクターなど、なんども車を停めさせてはタバコを吸う妻たちと、シーランとだんだん疎遠になっていく娘たちだけ。
そして世界を形作っていた男たちが、ひとりまたひとりと、この世を去ったあと、最後まで生き残ってしまい、守っていたはずの家族にも見捨てられ、懺悔さえできず孤独に「終活」をしていくデ・ニーロのその姿は、上映時間210分の最後の十数分を無慈悲に飾っている。
そしていつしか気づくのだ。わたしが「マフィア映画」というジャンルの映画のなかに観た、スタイリッシュな名優たちがみせた生き様は"絶対に"戻ってこないのだと。

マフィア映画とは、「裏社会」という特殊なものを通じて、人間の「生き方」を描くものである。『アイリッシュマン』で描かれるフランク・シーランの生き方とは、ひとつの世界で、「それしかできなかったんだ」とも言いたげな男のそれだ。シーランが駈けぬけた男たちの単純な古き世界。
それはいわば、『ゴッドファーザー』三部作や、『グッドフェローズ』、『カリートの道』、『ヒート』……デ・ニーロやパチーノ等、名優たちが飾ってきた"カッコいい"(アメリカン・)マフィア映画の数々が描いた世界でもある。それははたして古き「良き」世界とほんとうに言えたのだろうか? 友を手に掛けるという不可避の終局が訪れる。電話で思わず嗚咽をこらえるシーラン。彼のその世界が、はたして「良き」世界と言えたのか? そんな問いが、終盤、唐突に静謐な画から投げかけられる。

スコセッシは、時代を感じさせる王道マフィア映画を、あえて若がえりという「まぼろし」を名優たちに施したうえで創った。そう、すべては「まぼろし」だ。でもそれをいうなら、ほんとうはコルレオーネ・ファミリーやジミー・コンウェイやカリート・ブリガンテだって「まぼろし」だった。彼らの生き方は、最初から映画のなかにしか存在しなかったのかもしれないし、ましてや、もし存在していたとしても、もう現代はそれが存在しえる時代ではないと、『アイリッシュマン』のラスト数分は謳う。

『アイリッシュマン』の画面のなかには、そのことを畳みかけるように、老いたシーランの奥にはデ・ニーロが、老いたジミー・ホッファの奥にはアル・パチーノが、それぞれいる。もう名優たちになにを用いても「あの時代」だけは戻ってこない。そのことを意識せずにはいられない。いまはもう「まぼろし」だと、過去作品群を思いだす私に違和感が教える。
 そう、『アイリッシュマン』はこれまで「マフィア映画」が「前提」としていた時代や社会に対し、過去のものだと引導を渡したのだ。
だからこそ今作は「マフィアという生き方」を描いた最後の映画としての金字塔となるだろう。そのことをわたしは、郷愁をおぼえながらも、受けとめなければなるまい。

「ドアはすこし開けておいてくれないか、神父様」
 『ゴッドファーザー PART I』からこのかた、マフィア映画だけでなくいろいろな映画に引用され、何度も閉じられ、社会の裏と表や、彼岸と此岸を隔ててきたドア。それが、ここでは閉じられない。静かな感動をもたらすラストシーン。
それこそが、すべてのマフィア映画への「弔辞」なのである。
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