スローターハウス154

ハンガー・ゲームのスローターハウス154のレビュー・感想・評価

ハンガー・ゲーム(2012年製作の映画)
3.7
2020/6/26

だれもがカットニスの強さに憧れるのはなぜだろう。彼女の強さはどこから来るのものなのか。まちがいなく、それは不便利が当たり前に存在している”旧式”の生活が彼女にもたらしたものだろう。獲物を捕らえるための弓にせよワナにせよ、そこにあるもので作るのがあたりまえの生活。金さえ出せばあたりまえに美味しいものや快適な空間が手に入るような便利な世界で身に着けたたくましさとは、次元がまるで違うのだ。彼女は支配層(我々)のような物質的な豊かさを持ち合わせていないが、人生を生き抜くための術をすべて持ち合わせているようなしたたかさがある。あたりまえに安全に生きることができる豊かな我々は、必死で生きるために戦う彼女からいったい何を得ようとしているのか。
 
ちょっと生命について再考してみる。どうしてかわからないけど、強制的に産まされやがて死なされることの繰り返し、すべての生命はそのようにプログラムされている。本来、産まれて死ぬだけの役割である。そんななかで、「だれかのために生きたい」という欲求、ようするに愛は主に人間をはじめとした知能生物に備わっている。そのように人生になにか意味を見出したいという欲求は、「産まれて死ぬ」という生命の無情な宿命から目を背けるために独自に発明されたものなのかもしれない。その愛はやがて文明を発達させていった。文明の発達は我々の人生の選択肢を広げた。やがて”安全”に人生を送れる時代になった。そのなかで人々はだんだんと愛は身の危険をまねくことに気づいた。愛と安全の両立は難しいことにも気づいた。二兎追うものは何とやら、である。そうして愛の代わりに安全が人生における目的の地位を上げた。愛がなくても人生って案外楽しいじゃないか、と。しかし安全という価値ですらも、「やがて死ぬ」という生命の恒久的なプログラムであり人生最大の危険から逃れることはできない。ここで人間は問う、「(安全だけど)愛のない人生に何の意味がある?」と。
実際に人生の中で安全を捨てて愛を選ぶ人は、少数派だ。最悪の場合、愛も安全も手に入れられないこともある。そのようにわざわざ身の危険を冒してまで愛を求めなくても、世の中には愛にまつわるロマンティックなストーリーが溢れている。それらを楽しめる想像力さえあれば、いくぶんリアルさには欠けるが自分の人生で「安全に」愛が得られる。リアルさに欠けた、かりそめの愛を。
だからこそ安全をかなぐり捨てて本当の愛を選んだ(と、される。カットニスの本当の愛は別のところにあり、それが叶わぬものとなってしまうことを人々は知らない。)カットニスに人々は強い憧憬を覚え、熱狂する。ロマンティックなフィクションの世界の主人公然とした彼女に、人々は「愛だけが死を乗り越える」という希望・幻想を抱き、酔いしれる。もはや安全世界の人々にとって愛は宗教であり、神だ。だからこそ、愛を手に入れ”神”となったあかつきに、彼女は死から逃れなくてはならないのだ。そのようにフィクション化された彼女が死を、ましてや自殺を選ぶのは、安全世界の人々にとって許されてはならない物語のラストなのだろう。

物質的な豊かさと引きかえに我々はなにを得て失ったのか。
なんだかキャンプファイヤーの火を囲みながらするようなレビューになってしまった。