こういう映画に点数をつける人って何様なんだろうかと思う。編集されてると言っても2/3以上が樽川さんとお母さんの2人の映像。この2人の話に、人生に点数をつけているをつけているようにしか見えない。
日本の1日の死亡数は約3000人。一人一人の話を扱っていたらキリがない。
フィクションでない以上、その人の死に方を面白いか面白くないか判別している。誰にそんな権利があるのか。
もっと言うならばドキュメンタリー映画の存在意義がわからない。震災を題材にした映画はたくさんある。6年経った今、テレビでやっている東日本大震災についてのドキュメンタリーをしっかり見る人なんてもういないだろう。だが、東日本大震災を扱った映画なら見る人は居るだろう。タイムリーで言うのであれば、廣木監督の《彼女の人生は間違いじゃない》。私もこの作品は興味があり鑑賞したいと思っている。
6年経ってしまった今、被害を受けていない者達はただの歴史にすぎない。
そうなってしまったために、誰かがこの震災について色をつけて作品に残すしかない。
だがこの映画はドキュメンタリー映画だ。この人達の話を聞きたいが為に劇場に足を運ぶ人が居るのか。福島の原発の話はテレビで嫌という程見て聞いたのにも関わらず、更にお金を払ってまでまた話が聞きたいと言う人が居るのだろうか。
作る側も見る側も絶対に『この人達の可哀想』と言う感情がある。また伝える側には『私たち可哀想でしょ』と言う感情がある。ドキュメンタリーだとどうしてもそれが見えてしまう。
「何があっても命を捨ててはいけない。そんなこと誰にだってわかっている。」私はこの作品を、小学校の道徳の授業のようにしか感じられなかった。
5年ほど前。中学生の時に岩手県釜石市の中学生とイベントを等して交流会をしたことがある。今考えるとなんて残酷なんだろうかと思う。
被災した彼らを横浜に呼び、被災地の上っ面しか知らないハマっ子と交流会。ハマっ子達はいい話が聞けましたとお礼を言い、いつもと変わらない暖かい家に帰っていく。
だが彼らは煌びやかな横浜からバスに乗って原型のない街へと帰って行く。
彼らは横浜にいた2泊3日間何を考えていただろうか。
「今日伺った話はずっと忘れません」
こんな戯言は嘘だ。少なくとも1週間は忘れないだろう。だが、自分の当たり前の毎日を過ごしていたら日に日に被災者の方から聞いた話など忘れていく。現に私は交流会で聞いた話などもうほとんど覚えていない。この5年間自分の事でいっぱいいっぱいで、彼らの話を思い出したことなんてないに等しい。人間そんなもんなのだ。結局自分のことしか考えていない。
話を聞いて涙を流して居る人がいたがその涙はなんなのか。樽川さんを哀れに思って泣いて居るのか。
人間は心の中で絶対にヒトより優位に立ちたいと思っている。「私より可哀想な人が居る」そう思うことで優越感が生まれ、私はまだマシだと思い、生きる糧にしてる。
阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本地震。そろそろ関東に来てもおかしくない。東京、横浜、名古屋都会のど真ん中。大震災があったら被害や死者は想像を絶するほどとてつもないことになるだろう。
そしてまた大震災から5年後とかいい、被災者を哀れんだ者達が震災を題材にしたドキュメンタリー映画を作ると思うと身の毛もよだつ。