くじら

ジュラシック・ワールド 炎の王国のくじらのネタバレレビュー・内容・結末

3.8

このレビューはネタバレを含みます

 とてつもなく長いです。
 短くまとめると、
「恐竜のテーマパークにワクワクした人は見た方がいいよ(ゲス顔)」
「後半典型的なパニック映画だから気をつけてね」
「メイジー可愛くない」
 です。

 恐竜たちが生存する島に迫る火山爆発の危機。
 それに対し、島から恐竜たちを脱出させるべきという「恐竜救済派」と恐竜たちをそのまま絶滅させるべきという「恐竜絶滅派」。
 この2つの主張は今作では大きな意味を持つのですが、私は後者の「恐竜絶滅派」の思想であることを先に明言しておきます。
 それを前提に、以下感想です。

・良かった点
 前半パート、島部分。
 火山の噴火により恐竜たちが逃げ惑い、結果として崖から飛び降り、二度と浮上することなく溺れていくシーン。あるいは島から脱出の際、一頭残された恐竜が噴煙に呑み込まれていくシーン。
 この2つのシーンだけは、「滅亡した恐竜を復活させたテーマパーク」に心を踊らせた人間は、決して目を逸らさずに記憶に焼き付けなければならないのではないでしょうか。

 ジュラシック・パーク、その続編シリーズであるジュラシック・ワールドに共通しますが、これらは元々業の深い物語であり、それはつまり一度絶滅してしまった種=恐竜を人間の手により復活させたことです。
 どんな形であれ生まれた生命には生存の権利があり、それを生み出した者にはその生命を守る義務があります。それは一般に親子関係です。
 しかし、恐竜を復活させるという所業は、親子関係ではなく神と創造物の関係です。神の領域に足を踏み入れてしまった、しかし神ならざる人間には、それ相応のカウンターが用意されています。それはシリーズで度々人間が晒されてきた危険であり、前作ジュラシック・ワールドの事件であり、そして今作での危機です。

 冒頭でも提示した通り、私は「恐竜絶滅派」であり火山の噴火に対し、恐竜へのアプローチは行わない、つまり放置し恐竜たちが絶滅するのを傍観する立場です。
 しかし、作中でも示されている通り「恐竜救済派」もまた大勢の支持を受けており、この映画を見た視聴者の中にも「恐竜を助けるべきだ」という考えの方は多いかと思います。
 それを否定する気持ちは一切ありません。
 それは正しい思想です。例え人類が禁忌を犯して生み出したのであっても、生み出された生命そのものに罪はなく、その生命を保障することは紛れもなく正しいことです。
 ですが同時に、私は「見捨てる」行為もまた間違っているとは思いません。救済派も絶滅派も生命の価値、人類という種に対し恐竜という種の危険性、保護に掛かる具体的なプラン、有事の際のリスク、そうしたものを完璧ではないにせよ、全て理解した上で、何を優先させるか、最終的に判断を下したはずです。それはつまりどちらかが正しくどちらかが間違っているのではなく、どちらも正しくどちらも間違っており、そのどちらかを選ぶのは単に「選択の問題」に過ぎません。

 だからこそ「現代に再現された恐竜」に心を惹かれた者は皆、あの島のシーンを見るべきなのです。人類が復活させてしまった恐竜の(1つの)末路を見届けるべきなのです。
 恐竜たちを崖の下へ突き落とし溺れさせたのも、火山に呑み込まれる島に取り残し、殺したのも私たちなのです。
 どのような立場の人間であれ、あのシーンを見た時の気持ちはきっと同じでしょう。
 ジュラシックシリーズの1つの答えがあそこにある。私はそう思います。

・悪かった点
 後半パート、館部分。

 第一の問題点「ただのパニック映画に成り下がった」
 パニック映画を否定するつもりはないのですが、果たしてそのジャンルをジュラシック・ワールドでやる必要があったのか、と問われると首を傾げる方も少なくはないのではないでしょうか。
 脇道に逸れますが、私は当初、この映画を劇場で見るつもりはありませんでした。炎の王国という副題と(正式な副題はFallen Kingdom)初期の予告編を見た段階では「島から脱出するだけの内容」と思い、それならば今までと方向性が同じであるし、見る必要はないと判断してしました。
 ですが後期の予告で「島だけでは完結しないらしい」と見に行く決断をしたのですが、その私からしても後半の館部分は擁護しにくい内容でした。もっと純粋にジュラシック・ワールドの世界(つまり炎の王国という副題と初期の予告)に期待した方からすれば、尚更期待外れの内容だったのではないでしょうか。
 後半部分を一言で表すのであれば「典型的なパニック映画」であり、歯を抜く人の末路などは典型的なパニック映画であれば仕方ない、といっそ諦めが付くかと思います。

 第二の問題点「メイジーに魅力を感じない」
 後半、館部分の最大のキーパーソンはメイジーであることは間違いありません。ですが、残念ながら彼女はただの舞台装置に過ぎないと言うのが私の印象でした。

 私は前作のジュラシック・ワールドが大好きです。
 その最たる理由は、偏にグレイ(弟)とザック(兄)の兄弟が魅力的な点です。私が彼らに惹かれたのは、単に庇護されるだけの存在ではなかったからです。例えば彼らは一時遭難しますが、お互いにお互いを支え合い、パークの内側には自力で戻ってきています。更にクレアとオーウェンの2人と合流した後も、彼らは庇護されるべき存在として描かれてはいますが、所謂足手まといとしては存在していません。
 ザックは危機の際にはグレイの前に手を出し、少しでも危険から遠ざけようとしますし、反対に逃げる際にはいち早くグレイを前へ送り出します。グレイも決して兄や周りの人物の足を引っ張るようなことはせず、いわば庇護されるだけではない、守られるだけではない存在として描かれており、故に私は彼ら兄弟が好きなのです。

 対してメイジーは、絶対的な弱者として描かれています。
 電気が復旧しガラス越しにインドラプトルを目撃した際の絶叫、自分の部屋に戻ってベッドに潜り込む行為、窓から脱出した際にオーウェンを急かす言葉(=庇護される側が、まるで庇護する側に回ったかのような描写)。
 それらが私には「典型的なパニック映画における足手まといとしての子どもの描かれ方」に思えてしまい、メイジーに魅力を感じることが出来ませんでした。

 更に踏み込むのであれば、制作者は何故、メイジーを「視聴者に愛される存在」と思ったのか理解に苦しみます。もし、そう思える点を挙げるとすれば、クレアがロックウッド邸を初めて訪れた時、隠れてしまったシーン。もしくは地下でクレアとオーウェンと遭遇した時のあの様子でしょうか。ただ前者はともかく後者は「庇護しなければならない存在」としての認識が強くなるため「愛すべき存在」との認識は生まれにくいとは思います。
 他方、メイジーは家政婦のアイリスに悪戯を仕掛けたりあまり印象の良くない冗談を発したりと、正直可愛らしいというよりは小憎たらしいという印象でした。
 勿論、メイジーの出生や境遇、何よりも「子どもであること」は無条件に庇護されなければならない対象ではあります。しかし、それはメイジーだから守りたい、という認識ではなく、あくまで「子どもだから」であり、メイジー個人に付随する属性ではありません。
 メイジーを愛すべき存在として認識出来なかったという点で、私にとってはメイジーの描写は失敗であり、それはそのまま彼女がキーパーソンとなる後半館部分の失敗に繋がってしまうのです。

 第三にして最大の問題点「メイジーにボタンを押させたこと」
 この点に関しては賛否両論だと思います。
 私としては「あのボタンをメイジーが押すことに意味がある」という主張も理解出来ますし、それを間違っているとも思いません。
 ですが、これは冒頭の「恐竜救済派」と「恐竜絶滅派」のような「選択の問題」であると私は認識しています。
 私と異なる選択をした方は、同じ映画を見ていても、一つ一つのシーンの認識が異なっており、その結果がこのシーンの賛否に繋がるのだ、と思っていただければ幸いです。

 本題に戻ります。
 メイジーがあのボタンを押すことを許せなかった。メイジーにあのボタンを押させた脚本が許せなかった。その理由はメイジーがクローンだからです。

 クローン(=メイジー=恐竜)の立ち位置になれば、彼女たちが生存したいと思うのは当然のことでしょう。冒頭の繰り返しになりますが、この世界にどんな形であれ生み出された以上は生きる権利があり、その権利を彼女たちが象徴するのは当然のことであり、不当にその命が奪われることを否定するのもまた、当然のことです。
 その意味ではクローンの代弁者であるメイジーがあのボタンを押すことは当然であると言えるでしょう。

 しかし、私としては「クローンのその主張は、既に島のシーンで受け止めている」のです。彼女たちが死にたくない、生きたい、と叫んでいるのは、前半の島のシーンから誰しもが受け取ったかと思います。
 我々よりも深く恐竜たちと触れ合ったクレアとオーウェンにしてみれば尚更のことでしょう。
 ですが、クローンの主張を受けてなお、人類がどのような選択をするのか。それが重要なのだと私は思っています。

 前半の島から恐竜を脱出させる際は、他の島に移住させるというプランでした。それはある種の理想であり、恐竜絶滅派の私でも、それが実現できるのであればどんなに素晴らしいことか、と思う程です。

 ですが、後半は違います。
 あのボタンを押せば、人類世界と恐竜世界の境界がどうなってしまうのか、クレアもオーウェンも理解していたはずです。そして、その境界の崩壊は恐竜絶滅派のみならず恐竜救済派でさえも受け入れがたいことを。
 それでも、と思うクレアとだから、と考えるオーウェン。
 選択の問題であり、故に決断が重要になります。この決断は、この2人が下すからこそ意味があります。クローンの主張を、生まれた瞬間から死に行く瞬間まで見届けてきた2人だからこそ、意味があるのです。

 更に言えば、この選択は「ジュラシック・ワールド」の物語では無意味です。
 競売の前半部分が終了した時点で、落札された恐竜たちは搬送されています。あのボタンを押そうが押すまいが、既にジュラシック・ワールドの成立は決定しているのです。
 それは禁忌を犯した人類へのカウンターとも言えるでしょう。一度やらかしてしまった以上は、何をどうしようとも、二度と元に戻ることなど出来ないのです。

 しかし、選択の時点ではクレアもオーウェンもその事実を知りません。
 人類世界と恐竜世界の境界、その崩壊はクレアとオーウェンの決断に委ねられています。
 もし、クレアが、あるいはオーウェンがあのボタンを押していたとしたら、私はこの映画をここまで悪くは思わなかったと思います。またボタンを押すという決断は、私の選択とは異なりますが、それでも2人を非難する気にもなりません。
 私と選択が異なっていただけで、クレアとオーウェンは正しい判断をしたのです。それは、私が選択した正しさとは異なりますが、同時に異なる形の正しさです。

 ですが、実際にはそうはならなかった。
 あのボタンは「クローンの代弁者」により押されてしまった。ボタンが押されたこと、そのものが問題なのではありません。クローンの代弁者が押すことが問題なのです。
 それは人類の責任の放棄です。禁忌を犯した罪から目を背ける行為であり、最低の行為です。
 無論、作中ではクレアもオーウェンもボタンを押さないこと、と選択しメイジーは不意打ちのような形でボタンを押しただけです。
 ですが、それは何の免罪符にもなりません。最大の問題は、そのような脚本である、と私は思います。

・もったいなかった点
 メイジーのクローン設定。
 私にとって前作ジュラシック・ワールドは家族(=兄弟)の物語でした。その認識を持っていた私からすると、このクローン設定もまた家族(=親子)の話のために用意されていたのでは、と思います。
 即ちオーウェンとブルー、そして家政婦のアイリスとメイジーのためです。この関係性は同一であり、どちらも実の親ではなく育ての親であり、どちらも実の子ではなくクローンという存在です。
 しかしオーウェンとブルーの間にある何かは確かに感じられますし、アイリスのメイジーに対するそれは「母親もあの子も私が育ててきました」という台詞に表れていると思います。
 実の親子ではなく血の繋がりさえもなく。それでも親は親であり子は子でありその繋がりは家族である、という意志表示なのだと私は思っています。
 それだけに、あの後アイリスが一度も画面に戻って来ることがなかったのは非常に残念ですし、その家族部分が掘り下げられなかったために、メイジーは「クローンの代弁者としてボタンを押すための舞台装置」の印象が非常に強くなってしまった点は、この映画最大の欠点だったと思います。

・終わりに
 長々と書いてきましたが、私はやはり、前半の島のシーンのためだけでも、恐竜のテーマパークに胸を踊らせた方は見るべきだと思います。
 あのシーンを見た時にやるせないという言葉では到底表せない感情は他にはありませんし、あれは1つの「ジュラシック・ワールド」のエンディングではないでしょうか。

 最後に一番大事なことを。
 メインヒロインはやっぱりブルーでした。
くじら

くじら