かささた

餌食のかささたのレビュー・感想・評価

餌食(1979年製作の映画)
3.0
内田裕也追悼特集ということで新文芸坐に観に来ました。
僕は新文芸坐に来るのが初めてです。以前ここに来た時にはまだ文芸坐でした。場所はうろ覚えでしたが変わっていなかったので簡単にたどり着きましたが、すごい並んでいましたね。観客層は僕より少し上くらいのシネフィルを匂わせる眼鏡中年かロックンローラーっぽい人です。映画館もきれいになっていて驚きました。以前はおしりの向こうにスプリングの存在を確かに感じるひどい椅子だったのに、とても座りやすくなっていました。

「餌食」と「水のないプール」を二本立てで観たのですが餌食が1979年、水のないプールが1982年、主演はもちろんどちらも内田裕也、監督はどちらも若松孝二。時代も主演も監督も同じなのにあまり似ていないんですねこのふたつの映画。
もちろん類似点もたくさんあって、映画はふたつとも社会から疎外感を感じている男、内田裕也の逸脱行動を主に扱っています。逸脱しているのですが、餌食においての行動は分かりやすく共感を誘いやすい。強者が弱者を食い物にしている構図がはっきりと描かれています。内田裕也の怒りは日本が(おそらくは現在も)抱えている理不尽さに対する怒りであって義憤に近いものなんですね。水のないプールでは内田裕也は「これは政治だ」と言いながら夜な夜な他人の家屋に侵入して強姦を繰返しています。その上、被害者の家で朝ごはんを作ったりお風呂掃除をしたり洗濯をしたりして義憤だかなんだか良く解りません。被害者の内田裕也を擁護するような発言も全く共感出来ません。ふたつの作品では主人公の社会に対する立ち位置というか接し方が大きく違ってきているんですね。水のないプールの方が屈折していて複雑なんです。
勝手な感想ですが、僕はこの違いというのは70年代から80年代にかけて日本の社会が大きく変わったことと関係があると思っています。70年代に個人が社会に対して持っていた違和感というのは貧困やダサさ、海外よりも劣っているという劣等感から来ているように思うのですが、80年代に入ると(わずか3年の違いですが)高度経済成長がそのままバブル経済へ移行しつつある時期でもあって、貧困やダサさというものは表面的には払拭されていたかもしれません。そうした社会に対する個人の違和感というのももっとねじれたものに変わっていったのでは無いでしょうか。

映画上映後、ミュージシャンの近田春夫さんと作家のモブノリオさんによる対談も行われました。近田さんによると生前の内田裕也さんは映画や音楽の中身にはあまり関心がなく「何をしたら格好いいか」にのみこだわっていたふしがある、ということでした。
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